2025/2/7金曜日
6時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、夫の昼食作り。
ついでにチーズケーキ作り。

洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら9時40分に自転車で買い物へ。
3軒の店を廻り帰宅すると11時。
良い運動になった。
買ってきた食材を仕分けしているうちに食事を用意する時間に。
12時に昨夜以来の食事。
牛すじトマト煮込みと納豆ご飯でお腹を満たした。
デザートに朝焼いたチーズケーキ。
まずは、牛乳で作った方を食べた。
カットしているうちにボロボロに。
が、味はレモンが効いて美味しかった。
午後は読書と調べ物。
養老4年720年
正月11日空に白い虹が南北に架かった。
正月17日螢惑(火星)の運行が西方に動いているように見えた。
正月23日渡島の津軽の津司である諸君鞍男ら6人を靺鞨国(粛慎)に遣わし風俗を視察させた。
2/15夜地震があった。
2/29太宰府が奏言。
隼人が叛乱を起こし大隅国守の陽侯史麻呂を殺害。
3/12勅を出して特別に右大臣藤原朝臣不比等に授刀資人30人を加えた。
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↑大伴旅人を九州に厄介払いしている間に藤原不比等は天皇から私兵30名を賜っとる。
5/21一品の舎人親王は勅を受けて日本紀の編集に従っていたがこの度それが完成。
8/1藤原不比等が病気に。
8/12不比等死亡。
9/1日蝕。
養老5年721年
正月3日雷が鳴った。
正月5日正三位の長屋親王に従二位を、大伴宿禰旅人、藤原朝臣武智麻呂、藤原朝臣房前に従三位を、藤原朝臣馬養に正四位上を、藤原朝臣麻呂に従四位上を授与。
正月24日地震。
正月25日再び地震。
2/7地震。
2/15 大蔵省の倉が独りでに鳴り、人の声がした。
2/16 太陽に暈が掛かって白い虹が貫いたように見えた。
暈の南北の端に耳飾りのような輪があった。
7/25詔。
「凡そ天子の座につき天下に君主として臨めば仁愛が動植物にまで及び恩情は鳥や獣にまで及ぶべきである。故に周公・孔子の教えでは仁愛を優先し老子・釈尊の教えでは深く殺生を禁じている。そこで鷹司の鷹と犬、大膳職の鵜と猪を元のところに放ってその本性を全うさせたい。鷹司の官人と大膳職の長上らは廃止せよ。」
太宰府の城門に火災。
9/11天皇は伊勢大神宮に使を派遣。幣帛を供えさせ皇太子の娘、井上王を斎宮とされた。
10/13太上天皇(元明)が右大臣長屋王と参議藤原朝臣房前を召し入れ葬送に関して簡略にするよう詔。
12/29地震。
↑721年は天変地異なイベントが多い、と感じた。
悪霊が暗躍しとる。
養老6年722年
正月20日正四位上の多治比真人三宅麻呂は謀反の誣告(偽りを告げる)をした罪により、また、正五位上の穂積朝臣老は天皇を名指して非難した罪により斬刑に処せられる事に。
しかし皇太子(首皇子)の助言により死一等を減じ三宅麻呂は伊豆の島に、老は佐渡の島に流された。
↑いきなりの展開にびっくり!
長屋王事変(729年2月)の前に前座みたいな事件が起きていた。
そして、長屋王(親王)は父が高市皇子(実は高市天皇)で母は天智天皇皇女の御名部皇女。
更に、高市皇子(高市天皇)は父が天武天皇で母が宗像氏出身の尼子娘。
宗像氏は天照大御神の娘が嫁いでいる由緒ある家柄。
そして、御名部皇女の父は天智天皇で母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。
でもって、この蘇我倉山田石川麻呂という人物はその名の通り倉を所有する財産家で妻や母親の名前は不詳となっているが恐らく物部氏出身の女性。
何故名前に蘇我が冠されているのか不思議な程に物部系、という事が最近分かってきた。
つまり、これから、日本古来から続くサラブレッドな人達が政争に巻き込まれ衰退していく。
返却期限が迫っているが何とか長屋王事変までは読む事に。
17時半から夕食作り。

ぶりの塩焼き、焼き芋、豚キムチ、人参サラダ、玄米ご飯、昼の残りの牛すじトマト煮込み、チーズケーキ、チーズとナッツ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿は長女が洗ってくれた。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は6626。
充実した一日だった。