2025/2/5水曜日
5時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり作り。
洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら8時45分に買い物へ。
11時に帰宅後、大量の食材を仕分けしている間に食事を作る時間に。
12時に昨夜以来の食事。
夫にはラーメンを調理。
お腹が満たされたところで親族の訃報が。
ほうぼうと連絡を取り合った。
新年を迎えまだ2ヶ月だというに早くも3人目の訃報。
日本人を殺しに来ているな。
午後は読書と調べ物。
和銅7年714年
従3位の長屋王に百戸を増封。
↑ちなみに長屋王は「長屋親王」と書かれた木簡が発見されているから天皇の皇子。つまり高市皇子は高市天皇だったということ。

https://www.sankei.com/article/20201012-TWX2IEY2FVJPZLKRAOMFFVJE5I/
2/1日蝕。
2/13初めて出羽国で養蚕を行わせる。
6/25皇太子(聖武天皇)が元服(14歳)
10/1美濃・武蔵・下野・伯耆・播磨・伊予の六国に大風。
この年の租・調を免除した。
10/2勅が出され尾張・上野・信濃・越後などの国の民、二百戸を割いて出羽の柵戸に移住させた(蝦夷の鎮撫及び辺境の開発の為)
皇太子は初めて礼服を着て朝賀に列席。
陸奥・出羽の蝦夷に加えて南嶋の奄美・夜久・度感(徳之島)・信覚・球美などの島民が来朝し土地の産物を貢上。
それを迎える儀式には朱雀門の左右に鼓吹(太鼓や笛の楽隊)と騎兵を列にして並ばせた。元日の儀式に鉦や鼓を用いる事はこの時から始まった。
正月10日藤原武智麻呂に従4位上を、藤原房前に従4位下を授与。
正月16日新羅使の金元静らを宮中に召して宴。
2/25詔。3品の吉備内親王の子女(父は長屋親王)を全て皇孫の扱いに入れられた。
3/23金元静が帰国。
5/1諸国の朝集使に勅。
「人民を慈しみ導き農耕や養蚕を勧め働かせ養い育てる心を持ち飢えや寒さから救うのは誠に国司・郡司の善政である。一方、自分は公職にありながら心は私腹を肥やす事を思い、農業を妨げ利を奪い、万民を蝕むような事があるならば実に国家の大きな害虫のようなものである。そこで、国司・郡司で人民の生業を督励し人々の資産を豊かに足りるようにした者を上等とし、督励を加えるけれども衣食が足るに至らない者を中等とし、田畑が荒廃し人民が飢え凍えて、死亡に至る者を下等とせよ。10人以上も死亡するようであればその国郡司は解任せよ、、以下略」
丹波・丹後の二国が飢饉となり税稲の無利息貸付をさせた。
5/25摂津・紀伊・武蔵・越前・志摩の5国が飢饉にみまわれ税稲を無利息で貸し付けた。
遠江国で地震。
山が崩れ麁玉川(馬込川)が塞がれ水が流れず数日後に決壊。
敷智・長下・石田の三郡の民家170余が水没。
水田の苗も被害。
5/26参河国に地震。
正倉(田租収納の為の倉)47棟が倒壊。
人民の盧舎(粗末な建物)もほうぼうで陥没。
5/30相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の富裕な民千戸を陸奥国に移住させる。
6/12太政官は奏上。
日月の運行が普通でなく日照りが旬日に渡っている。諸社に幣帛を奉って祈り雨を降らせ人民に稔りを得させるならば聖天子尭にも比すべきお力をお持ちになると知りましょう。
6/13詔。
諸社に幣帛を奉る使者を遣わし名山・大川に祈らせた。
すると数日を経ずして時節にかなった雨がたっぷり降った。
7/1日蝕。
7/10地震。
9/2天皇は氷高内親王(元明天皇の娘で文武天皇の姉)に譲られた。
天皇は相変わらず人民に優しい。
今日はここまで。
17時半から夕食作り。

焼き芋、鶏ささみの塩焼き、蓮根肉挟み、サラダ、小松菜のナムル、クリチとハムのおかか味、伊予柑、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は8226。
充実した一日だった。