arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1241日目と「続日本紀 上」④

2025/2/4火曜日

5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり、夫の昼食作り。

洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら10時に買い物へ。

11時に帰宅後、読書と調べ物。

 

昨日に引き続き宇治谷孟著「続日本紀 上」

慶雲4年707年
6/24天皇は東楼に出御し詔を下し文武天皇の遺詔によって全ての政務を執る旨を告げられた。
即位にあたり、付添人を与えられている高齢者100歳以上に籾2斛、90歳以上に1斛5斗、80歳以上に1斛を与える。

八位以上の者には麻布一端、八位以上の僧尼には籾と麻布。男女のやもめ・孤児・独居の老人・自活出来ない者には1人毎に籾1斛を与える。

京、畿内太宰府所管の諸国に今年の調、天下諸国の田租を免除する、と宣べられた。


慶長4年707年
12/1 日蝕
12/4 伊予国に疫病流行。薬を支給し治療させる。


和銅元年708年
正月11日 武蔵国秩父郡和銅(精錬を要しない自然銅)を献上。
これを喜び天皇元号を改めると詔。

更に100歳以上に籾3斛、90歳以上に2斛、80歳以上に1斛、孝子・順孫(よく祖父母に仕える孫)・義夫・節婦は家の門と村里の門に掲示。3年間租税負担を免除。男女のやもめ・孤児・独居の老人や自活出来ない者には籾1斛。

武蔵国の今年の庸と秩父郡の調・庸を免除。
石上朝臣麻呂と藤原朝臣不比等に正二位を授与。
2/11 初めて催鋳銭司(銭貨の鋳造を監督する役人)を置いた。

多治比真人三宅麻呂が任じられる。

讃岐国に疫病発生。薬を支給し治療にあたらせた。


和銅元年708年
3/2山背・備前の二国で疫病流行。薬を支給。
3/13 大納言藤原不比等を右大臣に、百済王遠宝を左衛士督、百済王南典を備前守粟田真人大宰帥に任じた。
5/11 初めて和銅開珎の銀銭を使用させた。
7/7但馬・伯耆で疫病流行。薬を支給。
7/14隠岐国に長雨と大風。物を恵ませた。
7/26 近江国和銅開珎の銅銭を鋳造させた。
8/10 初めて銅銭を使用させた。
9/14 天皇は菅原(奈良市菅原)に行幸
9/20平城に巡幸しその地形をご覧になった。
9/22山背国相楽郡の岡田離宮相楽郡加茂町)に行幸
9/2天皇は春日離宮に。
9/28天皇は藤原宮に遷った。
11/1日蝕
11/7菅原の土地の民家90戸を他に移住させる。
12/5 平城宮地鎮祭を行った。


和銅2年709年
正月21日下総国で疫病発生。薬を支給。
5/25 この頃よこしまな悪党が利を貪り偽の銭を鋳造し使用している。

今後、隠れて偽銭を鋳造する者は身柄を官の賤民に落としその財産は告発した人に与える。
3/4隠岐国に飢饉発生。物を恵み与えた。
4/1日蝕
5/20新羅使金信福らが土地の産物を献上。
6/1 金信福らが本国に帰国。
6/9上総・越中で疫病発生。薬を支給。
6/26紀伊国で疫病発生。薬を支給。
7/1上毛野朝臣安麻呂を陸奥守に。諸国に命じ兵器を出羽柵に運び送らせた。蝦夷を゙討つ為である。
7/13越前・越中・越後・佐渡の船百艘を征荻所(蝦夷征討の根拠地)に送らせた。
8/25征夷大将軍佐伯宿禰石湯が征討の事を終わって入朝。
10/1日蝕
和銅3年710年
2/11信濃国で疫病流行。薬を支給。
3/10平城京遷都。左大臣石上朝臣麻呂を藤原京留守居役とした。
難波宮孝徳天皇同様、置き去りにした。

4/1日蝕
4/29参河・遠江・美濃で飢饉。物を恵み与えた。
10/1日蝕


和銅4年711年
4/1日蝕
4/5大倭・佐渡で飢饉。物を恵み与えた。
4/7藤原朝臣武智麻呂、藤原朝臣房前に従5位下を授与。
4/20尾張国で疫病。医師と薬を給する。
6/14挑文師(機織の技術者)を諸国に遣わし綿・綾を織る事を教習させた。
7/5山背郡相楽郡の狛部宿禰奈売が男の三つ子を産んだ。あしぎぬ2疋・真綿2屯・麻布4端・稲200束と乳母1人を賜った。
9/1日蝕
和銅5年712年
正月16日詔。

「諸國の役民が郷里に還る日に食糧が欠乏し多く帰路で飢えて溝や谷に転落し埋もれ死んでいるといったことが少なくない!国司らはよく気を付けて慈しみ養い程度に応じて物を恵み与えるように。もし死に至る者があれば埋葬しその姓名を記録し本人の戸籍のある国に報告せよ。」
2/19詔。京・畿内の高齢者と男女のやもめ、孤児、独居の老人とにあしぎぬ・真綿・米・塩を賜った。高齢の僧尼にも。
5/4駿河国に疫病流行。薬を支給。
6/7地震
7/15伊勢・尾張・参河・駿河・伊豆・近江・越前・丹波・但馬・因幡伯耆・出雲・播磨・備前・備中・備後・安芸・紀伊・阿波・伊予・讃岐など21国に命じ綾・錦を織らせた。


8/23天皇が高安城行幸

和銅6年713年
正月23日藤原武智麻呂に従4位下を授与。
2/1日蝕
2/23志摩国に疫病流行。薬を支給。
4/3 大倭国で疫病流行。薬を支給。
5/12 讃岐守大伴道足らが次のように言上。
寒川郡の人、物部乱ら26人は庚午年籍(天智9年)以来、良人として戸籍に載せられていた。

それが持統4年の戸籍校の時誤って飼丁(馬を飼う使丁ー良民より低い身分)の籍に入れられてしまった。

それ以来正しい戸籍に付けられて居ない。どうか良人の籍に編入されることを申請します。

これを許可された。
5/25 初めて山背国に乳牛を飼育する戸、50戸を指定。
11/1伊賀・伊勢・尾張・参河・出羽などの国が大風が吹いて秋の収穫に被害が出たと報告が。

これらの国の調・庸を免除。
11/5 石川(石川朝臣刀字郎女)・紀(紀朝臣竈門娘)の2嬪の呼称を下して嬪と称する事が出来ない事にした(宮子夫人への考慮か)

 

疫病が局所的に頻繁に発生しているが大流行となっていないようで素晴らしい。

あと、防人が主に東国から徴発され、九州の城に配属されていたが、任務が終わると現地解散。

よって、行きは手厚く赴くが帰りは放ったらかし。

自腹で帰るものだから野垂れ死ぬ者多数で悲惨だったようだ。

其れを耳にした天皇が何とか助けてあげよ、と詔を出していたのな。

素晴らしい。

もう一つ興味深かった記述は、三つ子以上を産むとご褒美が下され、乳母まで付けられていた。

手厚い福祉で素晴らしい。

誰が大臣になったとかだけでなく、こういう記事が読めるのは当時の政策が垣間見れて興味深い。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

焼き芋、ししゃも、豚とボンジリの塩焼き、サラダ、チーズ、玄米ご飯、昼の残りの鶏むねとネギの炒め物、ウォッカ梅酒ロック、りんごの皮ケーキ。

写ってないけど鯛のアラ味噌汁も調理。

長女も参戦し、3人で争うように食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

 

歩数計は7583。

充実した一日だった。