arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1240日目と「続日本紀 上」③

2025/2/3月曜日

6時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり作り。

ついでにホットサンドとサワークリームクッキーも製作。

お茶も煎れた。

張り切って2日分の洗濯物干しとベランダガーデニング。

人参の間引きをやった。

 

やる事やったら読書と調べ物。

昨日に引き続き宇治谷孟著「続日本紀 上」

 

慶雲3年706年
正月一日天皇大極殿に出御し朝賀を受ける。新羅使・金儒吉も列席。
↑新年の祝賀式に何故他国の使が居るのか不思議だけど、相当仲良しだったと推測。


閏正月五日 京・畿内及び紀伊因幡・参河・駿河などの国々で疫病が流行。

医師や薬を送って治療をさせた。

諸寺・諸社を清浄に掃除。

盗賊を模索し捕らえさせた。
↑毒ばら撒いているのに気付いたか。

 

正月20日 勅を下し神祗に祈祷させる。

天下に疫病が流行している為。
正月28日 泉内親王斎宮として伊勢大神宮へ。
2/26  河内・摂津・出雲・安芸・紀伊・讃岐・伊予の七カ国で飢饉。

それぞれに物を恵み与えた。
新たに7カ条の令を制定。
↑その中から一部抜粋。


(四)賦役令によると、京と畿内とは人ごとに調を納めているが、人ごとに出す布をやめて戸ごとに出す調に改めよ。外国(畿外)と内国(畿内)の民を区別し畿内の民を優遇。調を出す時の細則としは一戸内の丁(調を出す男子)の多少によって四等級に分ける。調の額の多少については太政官で審議して条例を作れ。


(五)賦役令によると、正丁(21歳以上60歳以下の男子)に課せられる歳役に実際は庸布2丈6尺を収めさせている。この庸布の負担を軽くし人民の窮乏を絶とうとしている。庸布の額を半分に減らせ。
太宰府の管内では庸を全免せよ。若しそのために公の作業の労役に不足が出れば、よくはかり考えて、穏やかな規則を作り、恒久的に規定とせよ。


(六)賦役令によると、一位以下の有位者及び百姓(公民)や雑色人については皆戸ごとに粟を取って義倉としている。この義倉の物は、貧窮の民に支給し、彼らを養う為に予め貯え備えておくのである。現行のように貧しい戸の物を徴収して、もう一度貧乏な家の人に支給するのは道理にかない難い。今後は九等級の戸のうち、中々以上の戸の粟を徴収して義倉とし、必ず窮乏の家に支給し他に流用してはならない。若し役人が一斗以上を私する罪を犯せば、即日免職し盗品の量に応じて厳罰にせよ。

↑一生懸命律令国家に成ろうとしている。


2/23 天皇は内野(宇智郡の野)に行幸
2/26  京及び畿内で盗賊が盛んに発生。強くて働きのある人を選び盗賊を捕らえさせた。
7/24 丹波・但馬の二国で落雷による山火事。使を遣わして幣帛を神に奉った。すると雷声が忽ち応じて雷雨となり火が一人でに消えた。

↑神懸っとるな。


倭国宇智郡狭峯山でも山火事。たたいて鎮火させた。
7/28 諸国が飢えているので使を六道に遣わしそれぞれ物を恵み与えた。
太宰府から「管内の九国(筑紫・筑後豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩)と三嶋(壱岐対馬種子島)は日照りと大風で樹木が抜き倒され穀物を損よないました」と言上。使を遣わし巡察、甚だしい被災者の調と徭役を免除。
8/3 越前国が山火事が収まらないと言ってきたので使を遣わし神に幣帛みてぐらを奉り救済。
8/29 三品の田形内親王を遣わし斎宮とした。
9/15 使を七道に遣わし田租の徴収法を定めた。一町毎に稲15束とした。
9/29 難波に行幸
10/12 藤原宮に帰還。
付き従った者の位を上、騎兵は租庸調を免除。
11/3 新羅国王に勅書を賜る。
天皇は敬んで新羅国王にたずねる。朕は才薄きにもか拘らずあやまって大いなる恵みを受け皇位にある。昔の女禍のように石を練って天を支える才能もなく徒に鏡を握って天下を統べる任についているのは慚ずべきことである。日が暮れても食事を摂ることも忘れ恭しく慎む気持ちはますます積もる。夜半まで寝につかず恐れ危ぶむ気持ちはいよいよ深い。願うところは天が万物を覆い地が万物を載せるような広い仁徳を天下に及ぼすことである。増して王は代々自国のうちにあって人民を慈しみ安んじ船を並べて至誠に則り長く朝貢の厚い礼を行って来られた。どうか盤石の国の基を開き、のろ鹿の住む山の岩穴にありながら聖王が名声を揚げたように後継ぎが国を固め直して善い政治が人民を覆い国内安泰に風俗また素朴で穏やかであることを願っているーーー」

↑他国の王に対し余りに謙り過ぎやないか?作為を感じる。

少しは聖徳太子日出処の天子)を見習わんと。


12/1日蝕
この年全国で疫病が流行。人民が多く死んだので初めて土牛を作って追儺(12月晦日の悪鬼払い)の行事を行った。
↑土牛とか初耳。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BA
調べたら土牛の晦日の行事は中国のしきたりだった。


慶雲4年707年
春正月(以下欠文)
↑どしたんだろーねー。
6月に文武天皇薨去するからそれに関連してるのかねー?

 

2/6 諸国疫病により死者を遣わして臨時の大祓。
2/19 詔で遷都の審議を行わせる。
2/25 天皇大極殿に出御し昇進審査に合格した人達に位を授与。直見王、紀朝臣諸人、高向朝臣色夫智、小治田朝臣安麻呂、小治田朝臣宅持、上毛野朝臣堅身、高橋朝臣上麻呂、中臣朝臣人足、平群朝臣安麻呂、高志連村君、国覓忌寸八嶋、幡文造通に従5位下を授与。
3/2 遣唐副使巨勢朝臣邑治が唐国から帰国。
3/26 鉄の印(焼印)を摂津・伊勢など23国に与え官営の牧場の駒と子牛に押印させた。
4/15 天皇は次のように詔をした。
「ーーー汝藤原朝臣不比等)の、天皇にお仕えする有様は今だけのことではない。口に出して言うのも恐れ多い天皇(天武・持統)の代々にお仕えし今また朕の大臣として明るく浄い心をもって朕を助け仕えていることの重大でご苦労なことと思う心があるので功賞をしようと暫く窺い見ていると不都合を避け忍んでいるのに似てきて其事を常々気の毒で重大な事と思っていると仰せられる。また難波の大宮にあって天下を統治された申すのも恐れ多い天皇孝徳天皇)は汝の父藤原大臣(鎌足)の仕えた様子を建内宿禰がお仕えしたのと同じであると仰せられて地位をあげ物などを賜った。そこで禄令に載せられた事を例として令の規定のままに末永く今より代々に与えてゆくものとして食封5千戸を与えると仰せられるお言葉を皆承れと申し聞かせる。しかし不比等は辞退して受けなかった。三千戸を減らして二千戸を与え子孫に相続させたーーー」
6/1 日蝕
6/15 文武天皇24歳で崩御

減税や物資の支援がマメで人民にとってめっちゃ良い天皇だった。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

からの寝落ち。

16時に覚醒。

17時から夕食作り。

焼芋、鶏手羽元の酒粕塩麹漬け、鱈とじゃが芋のグラタン、シーザードレッシングサラダ、ウォッカ梅酒ロック。

夫の焼酎も映り込んでいた。

これに玄米ご飯と中華スープを追加。

長女も加わり夫と競うように食べていた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物をすることに。

 

歩数計は4854。

充実した一日だった。