2025/1/23木曜日
5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり作り。
洗濯とベランダガーデニングの水やりを済ませたら久しぶりに台所の掃除。
年末に見落としたところを掃除した。
9時から読書と調べ物。
初期の結社員、ミカエル・マイエル、コメニウス、ロバート・フラッド、フリジウスらが直接の先師として仰いだのはヤーコプ・ベーメ。
ルターとパラケルススがベーメ以前の思想的父祖として尊崇された。
ボイケルトも言うように薔薇十字思想は「ルター(十字)とパラケルスス(薔薇)の双生児」だったのである。
パラケルススの生きた16世紀は数多くの秘密結社を生んだ。
1534年にはロヨラのイグナチウスの、ローマ教会防衛のための地下組織イエスズ会が反動体制側から設立されている。
パラケルススがどれだけ具体的に薔薇十字団の前身に擬される無名の錬金術結社に関わっていたか、であるが、問題を1536年の「大外科学」、とりわけ「今後二十四年間の予言」出版以降に限定するならば蓋然性はかなり強くなる。
フェルナンド王に献呈された予言パンフレットは専門家のみならず広く庶民や知識人一般に争って読まれる大部数発行の通俗書である。
逗留地はエファーディング。
旧知の主任司祭のハンス・フォン・ブラントが居た。
ブラントは神学と法学の能楽の士である傍ら熱狂的な「錬金術師」でありローマに対する内心の懐疑に蝕まれていた。
オーストリアには既にルターの教条が広がり、エンス、シャウムベルガー、シュターヘムベルガーなど地方の有力貴族達は大部分既にプロテスタントに改宗。
一方、エファーディングはローマから上部オーストリアに至る交通の要衝として旧教側の前進基地。
ハンス・フォン・ブラントは1542年4月22日に死亡。
その翌々年にはエファーディングはプロテスタントの傘下に。
パラケルススはブラントに献呈した「酒石症論後篇」でこう書いている。
「余は長年、秘伝哲学の業に於ける博学にして経験深い人士を求め、掛かる人々を訪ねて旅から旅を続け、心の渇望するものを少なからず見いだして来た。だが、現下の時節に於いても若い世代は秘伝哲学者にその昔に勝るとも劣らぬ程愛着を示さず、余の記す所の先達は大部分が鬼籍の人となってしまった。尚存命中の先達は少数であるが貴殿こそはそのうち秘伝哲学者に通じたる最年長者の一人である」
エファーディング滞在中、パラケルススはボヘミアの元帥ヨーハン・フォン・デア・ライプニクの診察依頼を受け南メーレンのクローマウへ。
胆石を病み左半身不随に陥った元帥の全身衰弱は時既に遅く手の下しようが無かった。
このクローマウ滞在中に「胆石症論後篇」が完成。
元帥の息子によると、パラケルススは完成した著書を置き去りにしたままクローマウ城から忽然と姿を眩ましたそう。
そのが息子が反パラケルスス派のクラート・フォン・クラフトハイムに語ったところによると「パラケルススはすんでのところで余の眼を片方奪うところであった。フォン・ツェロティン男爵夫人も余の父同様、彼の為に死の大口に引き渡された。かのドクトルは這う這うの体でクローマウ方面に立ち戻り、そこからハンガリアに逃亡した。彼はクローマウに行李一杯の、一部は携行してきた、一部は同地で書き取らせた原稿を置き去りにしていたが、フェルナンド王の命によりハンガリアから引き返し取りに来た」
ハンガリアではプレスブルクに滞在。
そこにはエラスムスの勲陶を受けた人文主義的結社グループが存在。
1537年9月、王国自由都市プレスブルクの市判事ブラジウス・ベーハイムは市会計の出費に於いて、市当局関係者並びにプレスブルクの医師達と共に「高名な医師パラケルスス」を晩餐会に招いた。
不遇の数年の後、彼は遂に公式の席でしかも高官陪席の下に歓迎の宴を贈られたのである。
インスブルック市長が放浪医師を市門から閉め出したのは僅か三年前。
それに引き較べプレスブルク市当局の歓迎ぶりは異様。
更に、意外なのは数ヵ月後のウィーンに於けるフェルナンド王の謁見。
世俗の最高権力者ながら、それも、二度に亘ってパラケルススと親しく対話。
↑これも罠?
しかも、「胆石症論後篇」の印刷費下賜を約束。
記録によると印刷費は100グルテンのみで全額は支払われなかった。
この謁見を前にパラケルススはフェルナンド王へ「大外科学」と「今後二十四年の予言」を献呈。
特に後者を読ませる為に、のちのインゴルシュタット大学ギリシャ語教授(当時アウグスブルクのライムント・フッガーの家庭教師)マルクス・タティウスをしてラテン語化せしめた。
この謎絵暗号文による予言書の回路を通ってフェルナンドの宮廷までやってきた。
その背後に秘密結社が存在したのかも。
アランディが語るように「中世以来、インテリ貴族階級は、教会の狭小な奥義や輝かしい思想家達を火刑に処したりする、その文献学的解釈に満足しきれなかった。この秘密主義の必要性が騎士貴族や聖堂騎士団やカタリ派などを鼓舞」
↑現代は○○の自由が憲法で保証されているから「秘密」にする必要無いわな。
法を犯すような事をしていなければ。
更に、騎士の血を享けたパラケルススは教権から自由な、王を中心とする往古の騎士団の復活構想に誘惑されやすかったであろう。
↑そういえばパラケルススは「教会隸民」
「今後二十四年の予言」の中にも明らかに王に好意的な立場からの「教皇が強大になれば、王はいよいよ弱小になり蔑視される」などの警告が散見される。
パラケルススを王の許に導いた影の騎士団組織が実在したか否かはともかく、パラケルススの側にそれを受け入れる用意があったことは確か。
その意味でなら、秘教主義を原理とする騎士団再興の夢は精神的には「薔薇物語」からアグリッパを経てパラケルススを重要な中継点として次の17世紀の薔薇十字団運動に継受された。
嘗てのパラケルススならウィーンの医師達と一戦交えずに済む筈は無かった。
が、彼は「酒石症後篇」の中で「余の著作は余と共に我ら双方がそこから生まれきたった処のもののうちに入る。追憶が、また仕事が残り、次いで復活の中で業に随うであろう。」と述べている。
復活は確実だった。
来るべき時代の何者かのうちに機に応じて転生し復活しさえすれば良かった。
↑何気に凄い事書いてる。
復活とか転生とか誰に約束されたんだろ?これは、キリスト教では当たり前なのか?
難解になったので今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物、からの寝落ち。
17時から夕食作りと入浴。
よーく温まった。

カブの中華炒め、サラダ、大根と豚肉の煮物、チーズ、玄米ご飯、昨日の残りの味噌汁、大豆の五目煮、ウォッカ梅酒ロック。
お腹が空いていないのでお酒と五目煮のみ食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は5381。
充実した一日だった。