2025/1/22水曜日
7時に起床し次男のおにぎり作りと昼食の下ごしらえ。
合間に洗濯とベランダガーデニングの水やり。
早朝、親族の訃報が。
年が明けてから2人目。
対応に追われた。
10時半に畑へ。
10/18に植えたブロッコリーは葉は大きくなれど一向に蕾は見えて居なかった。

が、今日漸く一つの株に蕾を発見。

春が近づいてきた。
ビニールトンネルの中の白菜も一株が漸く結球し始めた。

厳しい寒さが続く中でも野菜達は成長を見せてくれる。
納豆菌培養液入りの水を振り掛けたら帰路に。
帰宅すると11時過ぎ。
11時50分から昨夜以来の食事の用意。
味噌汁で体を温めた。
午後は読書。
パラケルススの著書「大外科学」についての講評が紹介されていた。
経験の優位を主張し、大遍歴の細部を惹起しつつ自らの自叙伝の体を成している「大外科学」は謂わば何よりも特異な旅行記、民俗学として外科医学を講述しながら隠された知の鉱脈に沿って異教的古代へと遡って行く、記憶の書としての旅行記である。
追想する事が現存する敵対者への戦闘となる。
様々の国を具に観る事が国々の相対的な特殊性への認識を迫り特殊な環境が特殊な風土病、鉱山病、足痛風を生み、同時に環境的特殊性そのものの中から浴泉療法や薬草療法のような風土固有の療法を編み出して来た昔ながらの民衆の知に彼は敬意を惜しまなかった。
↑そうそう。各国の伝統や文化は大事なんよ。
文献医学のラテニズムに限定された疑似普遍主義体系から民俗に潜在している異教的知を排除するのでなく、これを渉猟して不滅の普遍性へと秩序付ける事が肝要。
それは土着主義というような排他的な自給自足体制とも相容れない。
ローマ教会に対する拝外主義も地方主義的な排外主義も共にパラケルススの関知するところではない。
凍傷や蛇の咬傷のようにある地方に起こり易い外傷がある。
しかし、狂犬の咬傷や火傷のようにどこにでもあり得る外傷もある。
更に火薬による火傷のように特定の社会歴史的条件の中で初めて起こりうる外傷もある。
実際、排他的な土着主義も拝外的な疑似普遍主義も実状にそぐわなかった。
移動するのは政治的上層部、騎士、商人、僧侶のような特定の身分の成員ばかりでなく、また全ての農民が閉ざされた共同体に安住しているのでも無かった。
定住者が風土病に、移動者が社会性の強い病気に罹るという古典的な中世の環境は崩壊しつつあった。
農民は流民化、傭兵化し、ペストや梅毒のような偶発的な疫病伝播の尖兵に。
外傷も武器の開発により新種の戦傷が続出。
文献医学が役に立たないのと同様、古き民間医療も必ずしもこの開かれた状況に適応しなかった。
「妖魔や魔法の為に生まれる外傷」のようなものが「悪魔や悪しき人間や精霊の為に」起こるのだとすれば、外界と人間との間には調和どころかいつ如何なる時に不意に襲い掛かってくるかもしれない、とパラケルススは絶望した。
↑何度も言うが、「絶望」とか、悪魔の大好物。
死神が寄ってくるから極力マイナス思考は避けた方が良い。
て、それ、パラケルススが言ってた事やないかー!
「大外科学」のパラケルススは闘争を回顧するという形の闘争はしているが、ここで闘争してはいない。
闘争はしていないが、「若者」や「徒弟」に呼び掛ける文節が頻出。
「二種類の学生が居る。おのが妄想に縋る者と経験に頼る者と。経験のみが真理のうちに残り、おのが観念に思い煩った者は残らない。」
知は理解されるのではなく体験されるのでなくてはならない。
↑遍歴しまくり実地で経験を積んだパラケルススの言葉は重い、というか尊い。
それなのに、「絶望」したばっかりに悪霊に取り憑かれ若くして亡くなったのは残念。
惜しまれる。
今日はここまで。
17時から夕食作り。

玄米ご飯とナメコと豆腐の味噌汁、牡蠣グラタン、大豆と昆布の煮物、卵豆腐、サラダ、昼の残りの豚の味噌漬けとソーセージ、青菜の鰹節和え、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
歩数計は4459。
充実した一日だった。