arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1227日目と女子会と「パラケルススの世界」再読⑤

2025/1/21火曜日

5時半に起床し長女の朝食作り。

またまた雨模様なので6時45分に長女を駅まで送迎。

帰宅後、納豆作り。

大豆を蒸している間に洗濯と夫の昼食作り。

10時過ぎに自転車で女子会へ。

11時に食事会場の新都心駅に到着。

家から10km近くあるので1時間半は掛かるかな、と思い早目に出たら予想外に早く着いてしまった。

待ち合わせ時間まで時間があるのでウロウロ。

最後は最新情報をチェックしながら待った。

時間通りに5人が集合。

以前、一緒にテニスをしていた仲間。

自分を含めた2名は今はテニスをしていない。

それでも年に一度は集まってお喋りをしながら安否確認。

皆、元気。

2時間で入れ替えのお店なのでムシャムシャ食べながらもお喋りしまくった。

帰りは45分で帰宅。

良い運動になった。

汗びっしょりになったので総着替え。

そして、休息も兼ね、暫し読書。

 

昨日に引き続き、種村季弘著「パラケルススの世界」

 

1534年にメラノに滞在しながらシュテルツィング市庁に対ペスト対策を献策した後のパラケルススの足取りは色々と不審。
メラノは父ウィルヘルム・フォン・ホーエンハイムの隠棲しているフィラッハからさして遠くない。

だが、高齢の父を訪れた形跡は無し。
1534年8月にウィルヘルムが死去した際もメラノに滞在していたが駆けつけなかった。

フィラッハに帰省するのは4年後の1538年。
1535年、メラノを出発したパラケルススはフェルトリン渓谷から聖モーリッツへ。更に、温泉地として名高いプフェッファーに向かう。

その地で浴泉の効能書「上部スイスのプフェッファー浴泉について。その効力、効験、効果、由来因縁、養生法並びに治療」を書いた。

要するに、プフェッファー浴泉は「骨髄虚弱に由来する手足の拘縮」、「震顫」、「痛風」、「黄疸の傾向のあるあらゆる疾病、打ち身、進行性麻痺、糖尿病」などに効く。
この効能書はプフェッファー僧院長ヨーハン・ヤーコプ・ルッシンガーへ献呈された。

パラケルススは彼の診断書も書いている。
ルッシンガーは1517年から1547年の在任中、ウルリッヒ・ツウィングリと親交を結んでいると噂が立った。

1531年ツウィングリが死ぬと僧院を放棄するかローマに忠誠を誓うか選択を迫られ後者を選択。

生き永らえ1547年に死んだ。   
次に訪れたドイツのメムミンゲンでもパラケルススの止宿先は「二股坊主」の異名を取った牧師ベター・アルゴイアの家だった。
メムミンゲンでは市書記アダム・ライスナーの為に診断書を書いた。
胃病と脳病を病むライスナーは食餌療法と下剤を指図したパラケルススの処方に従った結果、快癒。

70歳以上の高齢を保った。
ケンプテン、メムミンゲン、ミンデルハイム、ウルム、と遍歴しながら「大外科学」を執筆。

1536年初頭、アウグスブルクを再訪。
この著書の第一部が1/21に、第二部が8/22に発行され、数ヵ月を経たずして初版を売り尽くした。
「大外科学」は当時ハンガリアとボヘミアの王であり、後にドイツ皇帝に選ばれたフェルディナンドに捧げられた。

同時にアウグスブルク公の侍医兼市医ウォルフガンク・タールハウザー宛に「大外科学」を要約した手紙を送りタールハウザーからパラケルススの意図に全面的な賛意を表した返書を受けている。

↑ここに来て、パラケルススが好評価を受けているのは素晴らしい。

もっと読みたかったが、夫がお孫ちゃん達をベビーカーに乗せて連れて来たので終了。

 

お孫ちゃん達の相手を1時間程。

夫が18時に2人を送って行った。

自分は夕食作り。

鶏もも肉とネギの塩炒め、サラダ、ウォッカ梅酒ロック。

残り物が沢山あるので2品だけ作った。

スポンジケーキは夫が下の孫の誕生日ケーキとして焼いた。

この前も焼いたと思ったが、あれは嫁の誕生日用だったそう。

わいとしてはまたケーキが食べれるから嬉しい。

後片付けを済ませたら営業終了。

 

歩数計は10642。

充実した一日だった。