2025/1/18土曜日
7時45分に起床し昼食とコーンブレット作り。

今回はクックパッドで中力粉で作るレシピを発見。
良い感じに焼けた。
合間に洗濯とベランダガーデニングを済ませ、読書を開始しようとした10時半に嫁から電話。
孫が「ばあばんち行く!」と言って聞かないそう。
求められるうちが花ですわ。
どうぞいらしてください、と返答。
上の孫は焼きたてのコーンブレットを3切れ、下の孫も一切れを平らげた。
そうこうしているうちに11時を過ぎたので、自分らの昼食用に用意したサラダとお味噌汁も提供。
いつの間にか起きてきた長女が孫達と遊び始めたのでここのところ体調不良の嫁は帰って貰った。
ご近所テニスへ行っていた夫も13時に帰宅。
一緒に昨夜以来の食事を食べた。
更に賑やかに。
夫と長女は14時に2人を公園へ連れて行った。
その間、夕食の仕込み。
15時から一休みしていると、孫達が公園から帰還、からの入浴。
下の孫は夫が入れた。
上の孫は長女と入浴。
着替えが一段落したら夕食作りを再開。
16時半に嫁が来たので孫達と先に出来ていた牛すじトマトパスタ鍋と海老サラダを食べ始めて貰った。
自分は最後の追い込みの揚げ物。
くわい、フライドポテト、鶏手羽元と順に揚げ、揚げたてを提供した。
お皿は長女と嫁が洗ってくれた。
19時半に帰っていったあと、読書と調べ物。
バーゼルでの逮捕の可能性をパラケルススに洩らしたのはボニファチウス・アメルバッハ。
バーゼルからの逃亡は助手のヨハネス・オポリヌスが随行。
オポリヌスは宗教改革派のエコランパディウスからの紹介。
オポリヌスは通算2年間パラケルススの側に。
↑監視役?
オポリヌスは1530年頃からはバーゼル大学のギリシャ語教授となり出版業者としても活躍。
後年は師を裏切り師の日常の詳細を偏見に満ちた表現をし、有名な「悪霊の幻惑について」の著者ヨーハン・ワイエルに宛てた私信を認めた。
これは後にワイエルの上述書に転載されたので歪んだパラケルスス像が広まった。
p.213 梅毒と癒瘡木
15世紀末、パラケルススによれば1480年代に梅毒は突然ヨーロッパの海岸部に上陸。
病名がシフィリスに固定されるのはイタリアの医学詩人フラカストロが1530年に「シフィリス、あるいはフランス病」と題するラテン語詩を書いてから。
ギリシャ神話の美しい牧童シフィリスが神罰の為に二目と見られない面貌に変わった故事にちなんだ。
梅毒がフランス病若しくはナポリ病と呼ばれるようになったのは1495年以降。
1528年に梅毒論文に着手したパラケルススは「シフィリス」を使用せず「フランス病」としていた。
発生時を1480年代とした根拠は占星術にあって、「この発生の時代におけるほど奢侈(「ルクスアリ」←もしかしてluxury?)と金星(ウェヌス)の力が強かったことはない」からであった。
パラケルススは梅毒が星の力によって起こると考えた。
彼は単に経験と実践医療の卓越によるだけでなく経験の個別性を普遍的な体系にまで論理化する必要性を痛感。
梅毒が道徳的頽廃の必然的結果であるとするパラケルススは病原体が外部から侵入したとは考えない。
「1470年と1480年のフランス病勃発の時程、大きな、無秩序な、豊満の限りの淫弊が存在した事は無く、そこで新たなフランス病という病気が発生。無秩序からこの変異が生じた」とした。
何か別の病気が既に身体に潜伏していて、そこから梅毒が発生。
既に隠されて存在する病気がフランス病の形式に移植される。
注目すべきはパラケルススが梅毒発生時を1470,1480年とはっきり名指し。
彼は梅毒アメリカ起源論者ではない。
「ウェヌス(金星)こそがこの病気の母胎。この病気も金星の影響も同意しない人間、実行的に妄想や強欲と掛かり合いにならぬ人間であれば些かも汚しはしない」
時代と外界がどんなに激動しようとも当の人間がこれに同じる事を肯じなければ金星もその妖しい力を彼の肉体に及ぼす事は出来ない。
↑最後の8行は何度も噛み締めて読んだ。
まるでありがたいおまじないの呪文のよう。
パラケルスス様様よ。
このあとも読書と調べ物をすることに。
歩数計は6553。
充実した一日たった。