arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1223日目と孫守りと「パラケルススの世界」再読①

2025/1/17金曜日

5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり作り。

洗濯とベランダガーデニングの水やりを済ませたら8時50分に嫁と孫達をお迎えに。

昨日から体調不良の嫁が病院を受診したいと言うので車で送迎。

ジジババはそのまま孫達と近くの公園へ。

 

めっちゃ風が強くて寒いせいか2人共抱っこに。

滑り台やブランコで遊ぶと上の孫は歩き出した。

が、下の孫は下ろすと嫌がるのでずーっと抱っこ。

公園は30分で撤収する事に。

そのまま近くの児童センターへ。

屋内では2人共に水を得た魚のように生き生きと遊び回っていた。

受診が終わった嫁と10時半に合流。

孫達は喜びで更にパワーアップ。

11時半まで遊んだ。

家まで送り届けたあと、スーパーで買い物。

帰宅したのは12時過ぎ。

12時半に昨夜以来の食事。

 

午後は読書と調べ物。

昨日まで読んでいた本は返却期限が来たので返却。

今日からは購入した種村季弘著「パラケルススの世界」を再び読むことに。

 

前回の続きから。

ザルツブルクでの農民蜂起に巻き込まれたパラケルススは身の危険を感じ逃亡。

大学都市インゴルシュタットへ。

しかし、そこで老いぼれスコラ学者たる医学教授と凡庸な学生に失望。

次の滞在地ノイブルクでは化学者ハンス・キーリアンと相識った。

キーリアンは後にパラケルススの手稿の最も忠実且つ重要な蒐集家に。

ノイブルク、ウルムを経て父ウィルヘルムの出生地シュヴァーベンへ。

父の母校チュービンゲン大学で講義。

次にロットウァイル経由フライブルクへ。ロットウァイルでは尼僧院長の難病を治療。

バーデンではフィリップ1世辺境伯赤痢を治療。

いずれも完治せしめた。

が、辺境伯からは約束されていた報酬を貰えず。

パラケルススは貧民には無料で治療した。が、王侯貴族からは莫大な礼金を取り
立てた。
フライブルクでは大学の教職に職を得ようとした形跡あり。

ツェーケルトに依ると、この頃口伝による後進育成の願望があったらしい。
が、願望は叶わずシュウァルツウァルトの温泉地を視察。
本草学におけるジグナトロギーと温泉成分の分析による温泉治療法の発見をした。
ジグナトロギーとは「外部の表微は内部の活動と効能を示している」という原理に基づいた外部と内部、外見と実体との対応理論。
野草や鉱石の眼に見える表微から薬物的成分を判断し、山から埋蔵資源を、人間の顔や手相から性格を、病状から病因を測定するなど多様な部門に亘る応用がここから編み出される。
ルネッサンス観相術からゲシュタルト理論に至る近代的知の脈流の基礎はジクナトロギーに発する。
第二の湯屋療法の発見の記録は「自然湯治について」(1525年)に集成されている。

バーデン・バーデン、テプリッツ、フィラッハ、ガシュタイン、ザンクト・モーリッツなど著名な冷水や温水の治療場を巡り、浴水中に含有される岩塩、鉱物、豆粉、苔、植物的薬種の薬理を精細に解明。

↑素晴らしい👏

この頃日本は応仁の乱からの下克上の戦国時代よ。

武田信玄は湯治してたのは有名。

各所に信玄の隠し湯あるし。


湯屋治療法は外科学と関連するが当時は外科医術同様、医学の名に価しない卑賎な民間療法として学問的に一顧だにされなかった。

パラケルススは地下に埋もれている源泉にまで降り立って地上の救済のための力を汲み取った。
シュウァルツウァルトから1526年末にはライン河上流アルザス地方の都市シュトラースブルクへ。

市民的定住への渇望は増し、12/5付けの市民名簿に「医学博士、テオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム、市民権を買う」と記入される。

同時に開業医の権利を確保する為同業組合「ツア・ラテルネ」に加入。

ここで名医の評判を耳にしたヨハネス・フローベン、印刷出版史上超一流の大物且つ人文主義的潮流の大文化人、から声が掛かった。

彼は右足に悪性の壊疽を患いバーゼル中の医師から右足切断は免れないと診断されていた。

パラケルススはこの悪性疾患を治癒せしめた。

バーゼル中がこの奇蹟に湧いた。
そして、フローベンの推挙に依りバーゼル大学の教授職へ。

ここから彼の挫折は始まる。
バーゼル市立美術館にある齢30前後のパラケルスス肖像画はハンス・ホルバイン子作で恐らく1526年末に描かれた。

この頃、パラケルススエラスムスバーゼル宗教改革の指導者エコランパディウスと会見している。
フロベニウスを巡るバーゼル人文主義者達の環はこの年の運動目標を八分通り達成。目標とはオクスフォードのトマス・モアがルーヴァンとパリで出版した二つの「ユートピア」初版をバーゼルでも出版する事。エラスムスラテン語序文を書き、印刷出版フロベニウス、装画ハンス・ホルバイン。
バーゼル版「ユートピア」は1518年に出版。

次いでドイツ語版がバーゼル大学法学教授クラウディウス・カティウンクラによって企画されたが原稿完成直後に死去。

遺志は後任者ボニファチウス・アメルバッハに託された。

ボニファチウスは弟のバジリウスと共にフロベニウスと並ぶバーゼル印刷出版社主ヨハネス・アメルバッハの子。

ここにドイツ語版「ユートピア」はフロベニウスとアメルバッハの協同により1525年刊行。

フロベニウスは再度病に倒れ1528年に死去。
ホルバインはボニファチウス・アメルバッハと「ユートピア」出版時から知己に。

ホルバインはエラスムスにも愛され遺産相続人に指定されている。

ホルバインは英国行きに際しボニファチウスにバーゼル肖像画集を預けた。

ボニファチウス死後は弟のバジリウス一家が引き継いだ。
ボニファチウスがパラケルススに会ったのはフロベニウス治療中。

パラケルススはボニファチウスの結婚式に出席しノイブルクの彼の家に滞在。

ここで弟のバジリウスとも知己に。
エラスムスとは彼が「ユートピア」の編集者としてフローベンの屋敷「安楽椅子亭」に逗留中に知己に。
エラスムスパラケルススバーゼル大学教授の地位へと勧誘した一人。
エラスムスは彼に的確な診断を与えたパラケルススに答礼している。
もう一人の重要人物、バーゼル宗教改革の大立物エコランパディウスもパラケルススの推薦者に。

おかげで「医学のルター」と呼ばれるようになったパラケルススは、むしろ「余こそがルター並びに諸兄になすべきことを与えるのだ!」と憤慨。
前任市医ヨーハン・ロマーヌス・ウィンデッカーは宗教改革に反対した為に給与を剥奪され解職の憂き目に。

そして市議会の推挽でパラケルススは市医に。

給与は年俸75ポンド。

医学部教授が50ポンドだったことを考えると独身のパラケルススにとって有り余る程だった。

その使い道たるや居酒屋で学生と酔いどれ達に全部バラ撒いてしまったのである。
↑何とも豪快。著者も痛快と評している。

久しぶりにパラケルスス本を読んだが、やはりその人間的魅力に魅了される。

再び読める事に感謝。

 

17時半から夕食作り。

焼き芋、鮭、鰹節のだしがらと醪の佃煮、チーズオンクラッカー、ポテトサラダ、朝の残り、昨日の残りのつぼみ菜和え物、ウォッカ梅酒ロック。

このあと玄米ご飯と味噌汁も追加。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は6787。

充実した一日だった。