2025/1/8水曜日
6時に起床し長女の朝食と次男のおにぎり作り。
洗濯とベランダガーデニングの水やりを済ませたら8時40分に買い物へ。
10時に帰宅後、大量の食材を収納。
11時から最新情報のチェックと調べ物。
11時50分に昨夜以来の食事の用意。
夫にはラーメンを調理。
喜んで食べていた。
午後は読書と調べ物。
ルネッサンス最大の高利貸資本家フッガー家は閨閥を通じてハンガリアの鉱山資本を掌握。
一方ウィルヘルム・フォン・ホーエンハイムはフッガー家の経営するフィラッハの鉱山学校の教師且つ鉱山労働者の専門医だった。
テオフラストが恩師の一人として挙げているシュウァッツの鉱主ジークムント・ヒューガーはフッガー家と微妙に敵対しつつ密接な関係があった。
つまり、フッガー家の依頼を受けたウィルヘルムが若きテオフラストにドナウ流域鉱山地帯の医学的化学的調査を委任したと推測される。
1521から24年の帰郷までに彼が隈無く歩いたバルカン諸国に当時見るに足る大学は数える程しか無い。
1521年以降は大学訪問が主眼では無い。バルカン諸国巡りの背後にはフッガー資本の研究発注が。
父ウィルヘルムが用立てる路銀では足りずフッガー家がバックに居るのでは。
但しその友好関係は1520年代のみ。
梅毒の特効薬癒蒼木の売買問題を巡りパラケルススはフッガー資本と敵対関係に。1536年の再訪は実務でなくトルコ軍侵入以来、悲哀をかこっていたハンガリア知識人にある種の秘密結社的使命を伝えるオルガナイザーとして潜行した可能性が大きい。
↑秘密結社的使命に関してはようわからん。
が、スポンサーが判明してスッキリした。
「パラケルスス、呪われた医師」(1937年)の著者ルネ・アランディはフェラーラ遊学を無視。
だとするとパラケルスス30歳。
大遍歴の道順も大幅に変わる。
パラケルススはこの修道院長から直々にカバラを伝授され1515,6年をシュウァッツのジークムント・フューガーの許に過ごしてからウィーン経由ケルンヘ。
ケルンでバジリウス・ヴァレンティヌスに錬金術理論を手ほどきされた。
ケルンからパリ、次いでモンペリエ、イタリアの諸都市(ボローニャ、パドゥア、フェラーラ)の順に。
ポイケルトやツェーケルトの説とは正反対のコース。
1522年以後はナポリ、サレルノへ。
ここで学位取得後ヴェネチア経由でフィラッハに帰郷するのは1525年。
伝記記者が人文主義の国際的伝播ルートから大遍歴の過程を組み立てているのに対しアランディはオカルティズムの視点から記述。
「パラケルススの生涯」を書いたアンナ・M・ストッダルトはパラケルススの錬金術的秘密結社との結びつきを真っ向から否定。
対するアランディはトリテミウス直伝のカバラ研究とこれに伴うエスタブリッシュメントへの反逆を強調。
大遍歴そのものを秘密結社の支部から支部への歴訪として見なしている。
ここからしばらくパラケルススのマリア・コンプレックスとか「薔薇物語」とか、ジャック・モレー、薔薇十字団、異端とかの話に。
苦手とする分野なので飛ばした。
パラケルススの探求の舞台は数年間の地中海沿岸遍歴のあとはドナウ沿岸諸国にあった。
首都や大学都市を離れて山里深く入り込むにつれパラケルススの民衆との直接の対話は増え民間療法に驚異する機会も増えた。
①ギリシャーウァイセンブルク(ベオグラード)ではウィラキア人が一口の飲用薬で如何なる切り傷、刺傷をも癒していた。
②悪魔祓い師は傷薬を塗るだけで切り傷、脚部切断、脈管切断まで治していた。
③鋳掛け屋職人は銅の鋳造物で止血し膿み潰された傷もそれで乾かした。
陶工達は金や銀の研磨板で同じような経験。(『大外科学』より)
④ある耳の聞こえない農夫は難聴はそのままにしていたが室内剣闘に及んだ際、その耳を切り落とされた。
すると不具の原因が無くなったので、かすかに耳が聞こえるように。
また、野戦の後に兵卒の間に黒死病や咽頭炎や胸痛が流行するのを見たが大出血したり大きな負傷をした者には何も起こらず、大変得をする事も見た。
『大外科学』には「テラ・シギータ(封印土)」が登場。
これは解毒軟膏で別名を「リミニ」(レムノス)若しくは「チン」(真の粘土)とも言いギリシャのレムノス島特産だった。
特にペストに対して絶大な抗毒作用があると信じられた。
採掘されるとコンスタンチノープルに送られサルタンの印章を刻印され流通は厳格に管理された。
時と共にこの医薬はキリスト教国への輸出は死罪を以て禁止された。
パラケルススはこの秘薬にクロアチアのツェングでお目に掛かっている。
ツェング(セニ)はクロアチア南方アドリア海に面した港町で対岸のクロアチアは言うまでもなく海路を通じてコンスタンチノープルやアラブと交通。
1469年以降ハンガリアの属領だった当時はトルコの脅威の最前線に曝されていた。
ツェングは12世紀初頭にアラビアの高名な地理学者・医師アブー・アブドゥラー・イブン・イドリーシーを客として迎え北イタリアやドイツの医学者がしばしば来訪した国際的な文化都市だった。
ここから北方69km のフィウメを経てイストリア半島に出る。
ここからフィラッハまでは騎馬で一日。
また、フィラッハ帰省直前に訪れたイストリア半島の水銀鉱山地イドリアもツェングやトリエステの港から頻繁にアラブの客を迎えていた。
アラビア人イブン・イドリーシーの名前はイドリアの地名と無関係ではない。
今日はここまで。
地図で調べたらフィラッハ(オーストリア)からイドリア(スロベニア)まで110kmだった。
イドリアからトリエステ港(イタリア)までは57km。
イドリアからツェング(セニ)港(クロアチア)までは170km。
オーストリアて意外に海が近いのな。
でもって、この辺りは色んな国がひしめき合ってるのな。
昔は色々あったかもだけど今は仲良く住んでるようで良かった。
15時半から夕食作り。

焼き芋、ししゃも、縞ホッケ、牛蒡と竹輪の肉巻き、蕗と蓮根のきんぴら、鶏ササミのピカタ、サラダ、鱈の酒粕牛乳味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は6458。
充実した一日だった。