arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1159日目と大根六耕とアーリア人⑩

2024/11/14木曜日

5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり作り。

6時45分に畑へ。

まずはアオムシパトロール

結構な寒さだけれどアオムシが居た。

毎日チェックしてて昨日は居なかった。

昨日見逃して、たった1日や2日でこのサイズになる?

明日納豆菌培養液を用意する事に。

アオムシの駆除が終わったら大根六耕。

今日もお気に入りの曲2つを歌って完遂。

7時半には帰路に。

帰宅後、シャワーと洗濯。

ベランダの水遣りも済ませたら9時半に自転車で郵便局へ。

その帰りに支援センターを通ると外で孫達が遊んでいるのを発見。

秋晴れの下、11時半まで遊んだ。

買い物してから帰宅後、昨夜以来の食事の用意。

午後は読書と調べ物。

昨日に引き続き青木健著「アーリア人

 

③ペルシア州は宗教の中枢・海上貿易の要

サーサーン王朝の首都はメソポタミア平原のクテスィフォン、副都はメディア州のハマダーン。

ペルシア州は相変わらず行政上では重要な役割を果たしていない。

しかし、宗教上と貿易上の二つで活躍。

(1)宗教上 帝国はペルシア的なゾロアスター教を国教に採用。

異常な密度で拝火神殿が建設された。

サーサーン家が代々仕えた神殿はスタフルに残され歴代皇帝の戴冠式に用いられた。サーサーン王朝第一の聖火もカーリヤーンに設置されていた。

ペルシア州は宗教や文化の中枢として機能。

(2)貿易上の意義 シルクロードからは外れていたがインド西岸・中国南岸を結ぶ海のシルクロードが発展すると状況は一変。

ペルシア州南部の海港、スィーラーフが飛躍的に発展。

海港跡からは東アフリカの象牙、インドの宝石、イラン高原東部のラピスラズリなどが出土。

中国の揚州や広州でスィーラーフから出荷された陶器が出土。

スィーラーフで遺跡の発掘をしているD・ホワイトハウスによるとその繁栄は「ルネサンス時代のヴェネツィアや現代の香港のようだったろう」と述べている。

 

〈エーラーン・シャフル=アーリア帝国〉碑文や印章を参照するとサーサーン王朝の皇帝達は「シャーハーン・シャー・イー・エーラーン(アーリア人)の皇帝」と名乗り「ペルシア王」という呼称は一度も用いていない。

彼らは「エーラーン=アーリア人」の名称を物凄く気に入り都市名や官職名など至る所に使用。

メソポタミア平原とメディア州の中間地帯は「エーラーン・アーサーン・ケルド・カヴァード(=カヴァードが安寧にしたエーラーン)」、現在のイスラームシーア派の聖地ゴムは「エーラーン・ウィナルド・カヴァード(=カヴァードが飾ったエーラーン)」などと名付けられた。

エラム地域に当たるフーゼスターン州は「エーラーン・ファッラフ・シャープフル(=シャーブフルのエーラーンの栄光)」と改称。サーサーン王朝の財務卿は「エーラーン・アーマルガル」、書記官長は「エーラーン・ディビールベド」、軍司令官は「エーラーン・スパーフベド」など帝国高官は軒並み「エーラーン」を冠した職名に。

日本だと官職名の上に「大日本◯◯」と冠するイメージ。

これ以降のイラン史でも見られないからサーサーン王朝時代は余程「エーラーン」が意識されたらしい。

イラン高原におけるイラン系アーリア人のペルシア化〉

実態としてペルシア人の基準を持って他のイラン系アーリア人を均質化。

メディア人、パルティア人、サカ人などのイラン系アーリア人を一元化した中央集権国家。

イラン高原イラン系アーリア人のベルシア化。

〈エーラーン・シャフルの経済的基盤〉

皇帝達はゾロアスター教の教えに酔っていたばかりでなく、経済的基礎を固める政策を進めた。

前2世紀から後6世紀まで灌漑設備の整備、大規模な植民活動‼️など農業生産力を高める施策が実行された。

エーラーン・シャフルの農業生産の中枢はメソポタミア平原及びフーゼスターン州(旧エラム王国領)

王朝初期にこの一帯で集中的に植民活動が行われ①灌漑施設の整備の結果生まれた自発的な都市、②ローマ帝国との戦争捕虜に強制的に建設させた都市、③イラン高原東部で叛乱した住民を強制移住させた都市、などが続々と建設された。

皇帝達が「エーラーン・◯◯」との命名に耽っていられたのもこれらの新都市建設ラッシュが強制移住されられた捕虜や住民達によって進められたからである。

次の開発のピークは5世紀末。

ティグリス河東岸にアラビア語で「カトゥル・アル・キスラウィー」と名付けられた運河が開削され、メソポタミア平原からイラン高原の中間地帯での集中的な開墾を開始するなどして前3000年から続くメソポタミア平原の長い歴史の中でもエーラーン・シャフルの時代が農業生産力のピークだったと高く評価されている。

〈エーラーン・シャフルの限界と経済的・軍事的崩壊〉

6世紀から綿作などによりメソポタミア平原の土壌は疲弊。

両大河は流れを変え一部の耕地を荒廃地に。

7世紀前半にサーサーン王朝のホスロー2世がビザンティン帝国を相手に無謀な戦争を繰り返し耕地を管理すべき地主や自由農民達を戦場に動員。

追い打ちを掛けるように628年ティグリス河が大氾濫。

灌漑設備諸共開墾地を押し流し後には泥濘と化した大地のみ。

26年間に及ぶ大戦で軍事力を消尽し、税収源まで失ったエーラーン・シャフルはビザンティン帝国と屈辱的な講和条約を結ばせるを得ない状況に。

この未曾有の大混乱中、ホスロー2世は暗殺され皇位継承者が決まらないまま4年に及ぶ内戦が勃発。メソポタミア平原に伝染病が蔓延し人口が激減。史上稀に見るカタストロフィの連鎖となった。

古代オリエントの終焉・イラン系アーリア人の覇権の終焉〉

628年のカタストロフィ後、帝位継承者の誰もが帝国再建に失敗。

エーラーン・シャフルは終焉を迎えた。

メディア王国以来1300年以上続いたイラン系アーリア人による政治的覇権も終焉。アラブ人イスラーム教徒はその破産した大帝国を再編成する管財人として歴史に登場した。

今日はここまで。

628年のカタストロフィは凄惨。

耕地の荒涼化で作物の収穫が激減の中、戦争に駆り出され、追い打ちを掛けるかのようにティグリス河の大洪水、そして伝染病の蔓延。

そりゃあ、人口削減されますわ。

日本はまだ大化の改新前。

その前に1300年以上続いた王国があったら事に驚くわ。

 

17時から夕食作り。

蓮根つくねバーグ、ワカメ豚しゃぶサラダ、三升漬とあおさ海苔の冷奴、玄米ご飯、醪汁、昨日の残りのブリアラウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は8783。

充実した一日だった。