arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1158日目と大根五耕とアーリア人⑨

2024/11/13水曜日

6時に起床し次男の朝食とおにぎり作り。

6時45分に畑へ。

 

まずは大根五耕で体を温める事に。

2曲目を歌った所で終了。

そしてアオムシパトロール

大根も太くなってきた。

7時半に畑をあとに。

 

帰宅後、シャワー&洗濯。

ベランダでの水遣りも済ませたら、年末調整関係書類の作成をフィニッシュ。

9時半に買い物へ。

10時半に帰宅後、食材を収納したら漸く読書タイム。

 

昨日に引き続き青木健著「アーリア人

㈡世界帝国の樹立ー「ペルシア帝国」誕生

〈メディア王国への叛乱〉

アンシャン王カンブジヤ1世の息子のクル2世は前553年に祖父であるメディア王国のアルシュティ・ワイガ王に対し叛乱。

伝説ではメディア人の圧政下に農作業に従事する理不尽さが挙兵よ根拠だそう。

白馬に牽かせた8輪戦車を愛用していたクル大王もメディア人の騎兵隊には苦戦。

しかし、前述のように遠征軍の司令官が寝返つたのを機に反転。

前550年、メディア王国征服後世界帝国の建設に着手。

次のクル王家のカンブジヤ2世は自殺したとされ、続いてハカーマニシュ家のダーラヤワウ1世が第3代ペルシア皇帝に即位。

この際、ハカーマニシュ家の中にクル王家の系図を嵌め込み両者は同じ一族であるかのように見せかけた。

ダーラヤワウ1世はクル王家の記憶が残るパースラガーダを嫌ったのか、帝国首都をエラム王国の旧王都スーシャーに移転。

クル大王がオリエント諸民族を寛大に扱ったのに対し、ダーラヤワウ1世は各地方の総督や皇帝の親衛隊には必ずペルシア人かメディア人を選任。

〈ペルシア帝国の特徴〉

①ダーラヤワウ1世は自ら「大王、諸王の王、ペルシアの王、諸国の王」と名乗りハカーマニシュ王朝の現実的基盤はペルシア人にあるとし、同じ「イラン系アーリア人」のバクトリア人やホラズム人はセム系のアッシリア人バビロニア人、エジプト人と同様、統治の対象でしかなかった。「アーリア人」という概念がイラン系アーリア人全体のメルティング・ポットとして機能するのはまだまだ先。

公用語は帝国アラム語エラム

帝国全体の公用語セム民族系のアラム語とアラム文字を採用。

アラム人はアッシリア帝国時代に商業民族として西アジアの広範囲に分散。

その言語は西アジアの国際共通語の地位を得ていた。

表記に楔形文字ではなく簡便なアルファベットであるアラム文字を採用。

筆記用具がタブレットからパピルスに代わった時代に適した言語になった。→タブレットって現代の小さいPCじゃなくて粘土板。

蝋板とも言う。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%8B%E6%9D%BF

後のパルティア語、中世ペルシア語、ゾグド語、ホラズム語は、多かれ少なかれアラム語ボキャブラリーを含みアラム文字を改良した文字で書き記した。

古代イラン系アーリア人を研究するには「帝国アラム語」に関する知識が欠かせない。

次に、ペルシア州での公用語エラム語。エラム人の書記官が官僚に登用され、エラム語とエラム文字で文書を作成。

ペルシア帝国に於けるペルシア人の活動を研究するには古代ペルシア語ではなくエラム語のタブレットを読み解かなくてはならない。

異様に影の薄い古代ペルシア語だが宮廷では標準語。

③帝国辺境としてのペルシア州

ペルシア帝国でペルシア州が重要な役割を果たした事は無い。

ダーラヤワウ1世以降はメディア人が考案した行政システムを継承しエラム人を官僚に登用。

アラム語を共通語にエラムの首都で治めた帝国だった。

人材としてのペルシア人古代オリエント文明の遺産を融合させ、自分達より古い伝統を持つ諸民族を綏撫し史上初の世界帝国を220年も運営した。

この能力は世界史上に大きな足跡を遺した。

ペルシア人の逼塞ーフラタラカー王朝〈ギリシア人の支配とパルティア人の支配〉

前330年にアレクサンダー大王によってハカーマニシュ王朝が滅ぼされて以降、前141年までギリシア人のセレコウス王朝が支配。

支配者はギリシア人、公用語ギリシア語、公用文字はギリシア文字、とギリシア文化によって統一された189年間を「ヘレニズム時代」と称する。

ギリシア人はインド=ヨーロッパ語族。

そして、前141年からはミフルダート1世率いるパルティア人がイラン高原を支配。224年まで365年間継続。

この、合計554年間、ペルシア人はペルシア州で逼塞。ペルシアに残存した地方王朝がアラム文字で彫ったコインとペルセポリスに残されたレリーフが数少ない動静を語る。

〈フラタラカー王朝/ペルシウス地方王朝〉

この王朝に関してはコインの綴りが一定せず語義も確定していない為、その存在も名称も定まっていない。

コインから推測するなら前2世紀中葉にヴァードフラダード1世というフラタラカーがセレコウス王朝(ギリシア人)とアルシャク王朝(パルティア人)が争っている間にペルシア人の独立王国を復活させたと見られる。

彼のコインにはハカーマニシュ王朝の皇帝と同じ栄光の光輪が彫り込まれている。

㈣アーリア帝国の成立ーエーラーン・シャフル誕生

〈サーサーン王朝の特徴〉

224年、ペルシア州神官階級出身のアルダフシール1世がアルシャク王朝を破ってサーサーン王朝を興した。

クテスィフォンを首都とする中央集権的帝国が勃興した。

それまでの王朝はメディア州か中央アジアに拠点を構えている。

何故遊牧地や交易ルートに恵まれないペルシア州に首都が?

サーサーン王朝の特質

イラン系アーリア人の帝国

ハカーマニシュ王朝ではペルシア人(とメディア人)が特権的な地位を享受していた。

しかし、サーサーン王朝では、皇帝に帝冠を捧げるのはサカ人の指導者スーレーン家。

軍人には旧メディア家出身が多い。

パルティア人の封建貴族も温存。

宰相や軍司令官には帝国各地の大貴族が任用。

イラン系アーリア人が支配階級を構成した。

公用語はパフラヴィー語

最初の80年間はパフラヴィー語に加えギリシア語とパルティア語も併用。

しかし300年代に入る頃からパフラヴィー語に一本化。

エラム人官僚やアラム人書記官は任用しようにも前者は消滅。

後者はメソポタミア平原の主要人口を占めていたがキリスト教と結びついてシリア語話者に変質しつつあった。

アルシャク王朝時代に行政処理を司っていたギリシア人も1世紀以降影響力を失う。支配権を握ったペルシア人は自ら文書行政を担当。

古代にあれほど文書作成が不得手だったペルシア人がサーサーン王朝以後は行政手腕に習熟した民族に変貌。

更に、イスラーム時代に入るとアラブ人やデュルク系遊牧民の下でペルシア人が嘗てのエラム人やアラム人のように行政管理の役割を担う。

サーサーン王朝ではパフラヴィー語が枢要に。

イラン高原各地に住むイラン系アーリア人がパフラヴィー語に標準化された。

今日はここまで。

口語文化中心で文字や文献が少なかったペルシア人が、行政手腕に習熟するようにまでなったのは凄い。

でも、これ、300年て、日本だと崇神天皇とかの時代やで。

日本もこの時代は口伝中心で文字は隣国の中国の漢字を使用。

文献等は殆ど無い。

万葉歌はぼちぼち作られたかもだが古事記とか編集されるの天武天皇の時代だから600年代後半な。

完成したのもっと後だし。

300年の前にこれだけの民族間の戦いや王朝の交代があったとか、歴史の授業で覚える事多過ぎて大変なのでは?と心配になった。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

 

17時から夕食作り。

麻婆白菜春雨、サラダ、味噌汁、昨日の残り物、柿、ウォッカ梅酒ロック、長女のお土産。

北海道から帰って来た長女も加わり賑やかな夕食となった。

後片付けを済ませたら営業終了。

このあとも読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は6906。

充実した一日だった。