2024/11/6水曜日
4時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり、夫の昼食作り。
ベランダの水遣りと洗濯を済ませたらシャワー。
8時45分に畑へ。
外は寒風が吹き真冬並みの寒さ。
手袋とニット帽が欲しくなった。
まずは恒例のアオムシチェック。
虫っ子一匹居なかった。
この寒さだからね。
そして、数日前に定植したキャベツに水遣り。

定植したのは一番右の列。
そして、ニンニクの成長もチェック。

9時には畑をあとに。
孫達と合流し春岡中央公園で遊ぶ事に。
ローラー滑り台で遊んだあとは広場でお絵かき。

11時まで遊んだ。
12時に昨夜以来の食事。
夫には温かいうどんを用意。
大好評だった。
食後はあんこ作り、からの肉まんあんまん作り。
ホームベーカリーのピザ生地メニューを利用。
期待したよりは膨らまなかった。
が、嫁と孫には好評だった。

生地作りの間に読書。
昨日に引き続き青木健著「アーリア人」
{辺境の遊牧王朝として}
前247年に族長アルシャク朝1世がアサークの街で王に推戴された時から始まる。
最初の首都は現在のトゥルクメニスタンにあるニサーの街。
が、アルシャク1世はギリシア文化に惹かれヘカトンピュロスと呼ばれる街に遷都。このパルニ族長の名前アルシャクがハカマーニシュ(アケメネス)王朝の皇帝の即位名アルタクシャサ(アルタクセルクセス)と同じ造語法を採っているがゆえに彼が同王朝の後継者を意識していたとする説もある。
〈アルタクシャク家の威信〉
この辺境の叛乱者達は100年間はパルティア地方の遊牧王朝に留まっていた。
イラン高原全体の主権を保持していたのはギリシア人によるセレウコス王朝。
アルタクシャク王朝はその傘下の属国。
しかし、パルニ族は強固な父系制社会。
アルシャク1世の後裔を中心とした王朝の団結は固かった。
歴代王は何れも「アルシャク」の称号を名乗る。
㈢遊牧民と定住民の葛藤ー中期アルシャク王朝
{ミフルダート1世の重装備装甲騎兵による征服活動}
この辺境の遊牧王朝を一躍世界帝国に押し上げたのが第6代ミフルダート1世。
この頃のパルニ族はサカ人以来の軽装備の機動騎兵による騎射戦法に加えてサルマタイ人と同様に重装備の装甲騎兵による突撃戦法も習得。
両者を混合させた戦力でギリシア人を圧倒。
ミフルダート1世は一代のうちにイラン高原北部を西進。
紀元前141年にはセレコウス王朝からメディア地方、メソポタミア平原の支配権を奪取。
征服経路に当たっていなかったイラン高原南部の地方王朝の服属も受け入れ短期間のうちに西アジアの覇権を掌握した。
土着の定住民の上にそのまま乗った形で覇業を達成したため、ギリシャ系の都市住民の心服を得るに至らず地方王朝も温存した為、直轄領の少ない王朝の基礎は脆弱だった。
第8代ミフルダート2世の時代になると帝国の重心は発祥の地中央アジアからメソポタミア平原へと移動。
ここに新首都クテスィフォンを造営。
中央アジアのサカ人達が自らが130年前に取った行動パターンをなぞるようにして大挙して南下。
サカ人も大月氏に追われていた、という事情もあったそうな。
ミフルダート2世の前任の大王2名はサカ人の迎撃に赴いて相次いで返り討ちに遭っている。
これに対しミフルダート2世はサカ人にイラン高原東南部を与え自らに仕える封建領主として組み込んだ。
サカ人は一部はそこに住み着き、大多数はそのままインドまで突破していった。
共和政ローマからは他の蛮族とは違う唯一対等の敵国と認識されるように。
サカ人相手に通用しなくなっていた高速移動による騎射戦術もファランクス(歩兵の密集方陣)を主体としたローマ帝国には有効だった。
〈定住民と遊牧民の対立〉
①ギリシア都市民やイラン系アーリア人定住民及び定住するようになったパルニ族。彼らは貿易で富を蓄積し安定した平和を希求。
②遊牧生活に留まったパルニ族。征服活動とそれに伴う収奪を富の基盤にしていた。
③皇帝は騎馬に乗って移動を繰り返していた。
この国内の分裂と脆弱な支配体制はローマ帝国に付け入る隙を与えた。
ローマ帝国は都市住民の利益を代表する王位継承者を支援する形で干渉を繰り返した。
ヴォノネス1世はローマ帝国に強く影響されギリシア都市民や定住民の利益を優先する政策を打ちだしパルニ族の遊牧貴族達の反感を買った。
遊牧貴族達は母方でアルシャク王家の血統に連なるアトロパテネ王アルタバーンを擁立。
後8年に軍事叛乱に踏み切り4年後の12年にヴォノネス1世を追放。
アルタバーン2世として即位した。
遊牧民を支持基盤とする王朝に性格を変え、同時に王統の交代があった。
イエス・キリストの少年時代の出来事である。
〈四〉後期アルシャク王朝への王統交代ー遊牧民国家への揺り戻しとイラン系アーリア人定住民の影響拡大
〈後期アルシャク王朝〉
アルタバーン2世は軍事的勝利を背景に帝権を強化しようとしたが遊牧貴族達の反感を買った。
これに乗じ、イラン高原東南部に居座っていたサカ人はヴィンダ・ファルナフの指導の下に20年頃に独立しパフラヴァ王国を建てている。
おまけにヴォノネス1世を破った事でローマ帝国も敵に。
彼らに使嗾されたアラン人がコーカサスから南下してイラン高原北部を荒らし回った。
〈定住民アーリア人の影響の拡大〉
アルタバーン2世のあとは紛争が絶えず血縁関係のはっきりしない皇帝が乱立。
後期アルシャク王朝の皇帝の代数をカウントする事は無意味に。
ヴァラフシュ1世の時代はイラン系アーリア人定住民の文化が表層に。
この時代からコインにはアラム文字を使用。
図像も拝火壇に変更された。
ヘレニズム文化の没落とイラン系アーリア人定住民の文化の影響力増大が3世紀のサーサーン王朝建国にまで繋がるイラン高原の文化変容の端緒である。
この頃のアルシャク王朝は内憂外患が相次ぎ国家の態をなさなくなる。
西方からローマ帝国が、北方のコーカサスからはアラン人が頻繁に侵攻。
東方諸国は勝手に自立。
このような状態にありながらアルシャク王朝はこのあと150年も存続。
パルティア時代のイラン高原には偶像神殿が多く金欠のアルシャク家もサーサーン家もこれらの宗教施設が退蔵している財宝が欲しかった。
サーサーン家の神官王達は「拝火儀礼の復活」というイラン系アーリア人定住民にアピールするスローガンを旗印に偶像神殿の財宝を没収して軍資金にしていった。
今日はここまで。
高校で世界史の授業を取ったけれどこの頃の出来事としては「ゲルマン民族の移動」と「フン族の侵入」しか記憶に無い。
中央アジアから日本へ渡来した人々が多い可能性があるのだからもっと詳しく学んでも良いかも。
自分のルーツを知るて大事よ。
14時半に孫達が到来。
15時半には帰って行った。
17時から夕食作り。

ししゃも、紅鮭、昨日の牛すじ煮込み、浅漬け、根菜スープ、真鱈たちの煮物、サラダ、ナッツ&チーズ、ウォッカ梅酒ロック。
夫と良く呑み良く食べた。
トランプ大統領が大統領に選ばれたのもあり夫は上機嫌。
日本も良い方向に変わるのでは、と言っていた。
自分もそれを期待しつつ、これからもDSの悪事を調べて行く予定。
後片付けを済ませたら、読書と調べ物をする事に。
歩数計は7805。
充実した一日だった。