2024/11/5火曜日
6時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり、夫の昼食作り。
ベランダで水遣りもし洗濯も干したらシャワー。
9時15分に畑へ。
まずはアオムシチェック。

大根にアオムシを発見。
4匹駆除した。

ビーツの元気が無い。
というか、発芽してからの成長が無く枯れ始めた。
これを狙い打ちされたか。

買い物をしてから帰宅すると12時。
食材を収納したら、昨夜以来の食事。
夫には焼きそばを用意した。
午後は読書。
昨日に引き続き青木健著「アーリア人」
アラン人(アーリア人)の続きな。
サルマタイ人がオリエントへ遠征する機会を殆ど持たなかったのに比べアラン人は頻繁にコーカサス山脈を越えた。
1世紀前半に王統が断絶して危機的状況にあったアルシャク朝に対し大遠征を繰り返し新王朝の創始者アルタバーン2世を苦しめている。
64年と134年にも大規模な侵入が記録されているのでアルシャク朝は同じイラン系アーリア人遊牧民のアラン人によくカモにされた。
アルシャク朝はコーカサス山脈に一種の万里の長城を築いてウクライナ平原からの遊牧民の侵入を食い止めようと考えた。
3世紀の碑文に「アランの門」が言及されているからそれ以前に完成していたようである。
ササン朝のシャープフル2世はコーカサス山脈に石造の「ダルバンドの門」を造営しアラン人の侵入に備えた。
シャープフル2世には気の毒な事に4世紀にはアラン人事態がウクライナ平原での覇権を失い折角の「ダルバンドの門」も余り役に立った形跡が無い。
〈フン族以後のアラン人〉
《フン族の侵入》
アラン人のあと東方から襲来した遊牧民はイラン系アーリア人ではなくテュルク系の考えられるフン族。
クレルモンの僧正シドニウスの記録によれば彼らは「短軀で扁平鼻で細目のぞっとするような姿」と形容され「長身、美形で金髪」とされたアラン人とは評価が正反対に違う。
記録しているのがフランス人なので同じ白色人種には甘く初めて見た黄色人種に点が辛い。
フン族の来歴は不明。
前5世紀にサカ人から遊牧技術を習得したモンゴル高原の匈奴の一派が西走したと推定される。
遊牧民は離合集散を繰り返すので中核は匈奴系だったにしても実際には色々な集団を巻き込みながらウクライナ平原に到達した。
フン族の襲来がゲルマン民族(ドイツ人の祖)の大移動を引き起こしローマ帝国の滅亡を促した。
しかし、正確を期するならモンゴル高原から到来したフン族と北欧・中欧のゲルマン民族の間にはウクライナ平原のアラン人が存在した事を忘れてはならない‼️
フン族の到来によってウクライナ平原の覇権がイラン系アーリア人遊牧民からデュルク系遊牧民に遷った事は古代イラン学者から見ればヨーロッパ研究者にとってのゲルマン民族の大移動に劣らない大事件だった。
《アラン人の四散》①ヨーロッパへ
370年頃フン族によって蹴散らされたアラン人はヨーロッパ方面とコーカサス方面に活路を求めた。
このうちヨーロッパへ逃避したアラン人は次に標的となったゲルマン民族と共にフン族に対抗した。←ここでアラン人(アーリア人)とゲルマン人(ドイツ人)は仲良しに。
が、フン族に対抗しきれず。
一緒になって落ち延びた。
彼らはゲルマン民族の中のゴート族やヴァンダル族と共にライン河を渡ってフランスへ。
更にピレネー山脈を越えてスペインへと落ち延び、一部の部族はジブラルタル海峡まで渡って北アフリカのカルタゴ(現在のチュニジア)へ。←フェニキア人の拠点じゃなかったか?
彼等の大部分はそのまま消滅したがフランスやイギリスの男性名「アラン」はその名残か。
スペインの「カタロニア(Catalunia)」地方は「ゴート族とアラン人」が多く住み着いた為にこの地名が成立した。
《アラン人の四散》②コーカサスへ
コーカサス方面へ逃げ延びたアラン人は山岳地帯に定住し農耕民に。
現在のロシア連邦の北オセティア共和国とグルジア共和国の南オセティア自治州に跨って住むオセット人として存続。
キンメリア人→スキタイ人→サルマタイ人→アラン人→オセット人
宗教研究上の彼らの重要性はオセット語によって独特の「ナルト叙事詩」という神話を保持している点にある。
20世紀の比較神話学者G・デュメジルはこの「ナルト叙事詩」を高評価。
イラン系アーリア人遊牧民の宗教体系を集約している、とみなし彼の研究の重要なベースにした。
日本で活躍したオセット人も居る。
元・大相撲力士の露鵬・白露山兄弟と若ノ鵬。露鵬と若ノ鵬の本名「ソスラン」は岩から生まれた太陽神、白露山の本名「バトラズ」は聖杯の守護者に当たり由緒正しい名前であるそう。
《パルティア人ーイラン高原に500年に及ぶ遊牧王朝を樹立(前3〜後3世紀)》
㈠パルティア人とアルシャク王朝史の区分
[定住民支配からの解放と遊牧民の征服活動]
舞台は中央アジアへ。
遊牧民が定住民を支配する新しいタイプの国家の誕生。
立役者のパルニ族とは中央アジアのサカ人の系統を汲むイラン系アーリア人遊牧民の一派でマッサゲタイ族の分派ダーハ族の出自とされる(このダーハ族の名前は現在のトゥルクメニスタンのダヒスターンという地名に残る)彼らはペルシア帝国が強勢な間はその支配下に。
が、前330年の同王朝滅亡後、後継国家セレウコス王朝が中央アジアまで支配権を及ばせなかったのに乗じてイラン高原への南下を始めた。
この相互作用は中国王朝と北方遊牧民の関係に似ているかも。
パルニ族の最初の移動先であるダビスターン、コペト・ダーグ山脈周辺には前3千年紀から定住文明が発達。
ここにあった都市国家はセレウコス王朝時代にヘレニズム文化を受容してポリスを形成。
彼らが新来のパルニ族に定住民との共生方法を教えた。
この意味でダビスターンへ移動後のパルニ族を単純な遊牧民と割り切る事は出来ず「定住民との共生を覚えた遊牧民」と捉えるべき。
この経験がイラン高原侵入後に生きてくる。
パルニ族は前3世紀半ばにカスピ海東南岸一帯のパルサワ(ギリシア語でパルティア)の支配権を握った。
我々が普通に使っている「パルティア人」という名称はパルニ族が一時的に占領したこの地域の地名を冠した他称に過ぎない。が、この瞬間を目撃・伝聞したギリシャ人・ローマ人はパルニ族をパルティア人と認識してしまい、その影響は現代まで及んでいる。
つまり、中央アジア〜イラン高原東北部での遊牧民の系統を整理すれば、サカ人→マッサゲタイ人→ダーハ族→パルニ族という推定図式が得られる。
パルニ族の族長アルシャクが建てた王朝をアルシャク王朝と呼ぶ。
当初はイラン高原の辺境に割拠した一遊牧民国家に過ぎなかった。
が、重装騎兵の威力なのか瞬く間にイラン高原北部を蹂躙しメソポタミア平原まで侵攻。
短期間のうちに中央アジア〜イラン高原〜メソポタミア平原を束ねる大国家を建設した。
西アジアでは初めて遊牧民が定住民を支配する征服王朝であるにも拘らずその支配は500年近く続いた。
この点でのちのセルジューク王朝(1037〜1157年)などの形態を先取り。
アルシャク王朝は2回は国家の性格を変える事件があった。
それを区切りとするとアルシャク王朝は3期に分けられる。
①初期 遊牧時代 前247年にパルニ族の族長アルシャクが即位してから前141年に第5代王ミフルダート1世がメソポタミア平原を制圧するまで。
辺境の遊牧民国家として西へ西へと征服活動を繰り返した時期。
②中期 遊牧と定住の複合時代 前141年から後12年にアルタバーン2世が即位するまで。
メソポタミアの都市文化や定住民の文化遺産に触れ、ギリシア系都市市民や定住したパルニ族と、遊牧生活に留まるパルニ族の間で反目が深まる。
③後期 遊牧への揺り戻し時代 12年から滅亡する224年まで 内戦の結果、遊牧民の支持を得たアルタバーン2世が即位。
ギリシア文化を捨て去って遊牧生活への揺り戻しが始まる。
アルタバーン2世は母系でアルシャク家と繋がるだけなので実質的には王統交代があった。
ここからはこの区分に従って更に詳しく紹介される。
いやー、中央アジアの歴史て凄ないか!?
紀元前から重装の騎馬で戦ったり、遊牧民vs定住民族の戦いが繰り広げられたり。
戦いに継ぐ戦いよ。
そら、百戦錬磨だわ。
12世紀まで島国日本でぬくぬくと暮らしてた日本がよくまあ元寇による侵略を回避出来たよ。
鎌倉武士のお陰やん。
今はアメリカDSにガッツリ侵略されてるけどな。
そのアメリカはいよいよ大統領選挙の投票日を迎えた。
スケジュールはこんな感じだそう↓
https://x.com/hide2951889/status/1853364452734718275?s=19
DS連中が、幕末の薩摩藩による江戸騒擾作戦みたいな事(江戸城放火や強盗、江戸市中見廻り屯所銃撃)やるかもなのでお気を付けて。
15時半に孫達が来訪。
暗くなったので17時前に帰って行った。
そのまま夕食作り。

秋刀魚と大根おろし、牛すじ煮込み、バターナッツスープ、サラダ、浅漬け、ウォッカ梅酒ロック、みかん。
19時からの夕食まで時間があるのでトランプ大統領のによる最後の?スピーチを聴く事に。
https://x.com/realDonaldTrump/status/1853636169684378033?s=19
トランプ大統領、2020年の選挙で色々と気付かせてくれてありがとう。
おかげで4年間調べまくった。
感謝しかない。
歩数計は7042。
充実した一日だった。