arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1141日目とフグ計画②

2024/10/27日曜日

5時に起床し読書。

昨日に引き続き海野弘著「陰謀と幻想の大アジア」

 

満州国は日本が海外に建設した初めての国。←それって外国への侵略やないか!やってはいけない事や。

リチャード・ディーコンによると日本の軍部は初期に情報機関を確立していなかったので支那通と言われる大陸浪人達を使った。その一つが内田良平黒龍会

フグ計画について最初に記したのはマーヴィン・トケイヤー、メアリー・シュオーツ「フグ・プラン」(邦訳「河豚計画」加藤明彦訳 日本ブリタニカ1979)であった。リチャード・ディーコンの本でこの資料を知った。

トケイヤーは1968から1976年までユダヤ教東京教区のラビだった人。この本の前書きによると1970年代の始め、戦時中に早稲田大学で学んだ在日ユダヤ人マイケル・コーガンから、神田神保町古書店で見つけた戦前の外務省機密文書を見せられる。

同席した加瀬英明松岡洋右外相の秘書だった加瀬俊一の息子)に読んで貰うと、嘗て日本政府が計画していたフグ計画の資料だった。

発売当初は注目されなかったが1990年代のスティーブン・スピルバーグ監督による映画「シンドラーズリスト」のヒットにより注目を浴びた。

シンドラーズリストのヒットで注目を浴びたのは日本のシンドラーと言われた外交官杉原千畝。しかし、同時に反ユダヤの動きも現れた。月刊誌「マルコポーロ」1995年2月号はナチのガス室は無かったという記事によって廃刊に追い込まれた。杉原千畝についても日本の国策に反して行った人道的行為であったか、日本政府の暗黙の了解の元においてであったかが問われた。

その際、満州において日本は二万人のユダヤ人を救っており、更に数十万のユダヤ人の国を満州に作る計画があったとしてフグ計画が取り上げられるようになった。

著者をまず感動させたのは阪東宏著「日本のユダヤ人政策 1931―1945―外交史料館文書「ユダヤ人問題」から―」(未来社2002)

この本に続いて金子マーティン「神戸・ユダヤ人難民1940-1941―「修正」される戦時下日本の猶太人対策」(みずのわ出版2003)という優れた研究が出た。神戸のユダヤ人難民の調査を通じて現代のユダヤ問題全体へのパースペクティブを与えてくれる。

これらの本によると「フグ計画」の主役は陸軍の安江仙弘(1888-1950)と海軍の犬塚惟重(1890-1965)

安江は松本市生まれで陸軍士官学校出身。幼年学校時代からロシア語を学び東京外国語学校に通った。1918年、陸軍中尉としてシベリア出兵に参加。シベリアでは日本軍は白軍のアダマン・セミョーノフを支援。白系ロシア人のボス、セミョーノフは反ユダヤ主義者。安江はセミョーノフとの連絡将校を務め、反ユダヤ資料を入手。そこには「シオンの議定書」も。彼は1924年、包荒子ペンネームで「世界革命之裏面」として紹介した。

ちなみに杉原千畝早稲田大学からハルビン学院に留学。1924年、最初の夫人クラウディア・セミョーノヴナと結婚。彼女の父はセミョーノフ軍の幹部。それでも反ユダヤ主義に染まらなかった。←むしろ、ユダヤ派のスパイだったのでは。

杉原ビザは美談に終わらなかった。1990年代の「マルコポーロ」事件や歴史教科書問題に巻き込まれたからである。杉原ビザは人道上見地からの発行説に反論が現れた。

日本におけるユダヤ人問題の曖昧さはそれが日本とユダヤとの直接的関係の無さに由来。それは現実と言うより幻想のユダヤ。殆どの日本人がユダヤ人を直接的に知らないのにユダヤ本が売れるという珍妙な現象が起きる。←わいも騙され何冊も買った。ようまあこれだけ嘘並べるな、てな具合に嘘八百だらけ。奴らにしてみれば「騙される方が悪い」んだろうけど。

日本における反ユダヤ主義の出発点はシベリア出兵。第一次世界大戦が始まった時、日本は中国大陸への進出の機を狙っていた。その時ロシア革命が起きた。革命勢力に対し列強は武力干渉。アメリカと日本もシベリア出兵。反革命軍は幾つにも分裂。英国は黒海隊司令長官コルチャーク提督を後援。日本は東支鉄道長官ホールワットとザバイカル・カザックのアタマン・セミョーノフを後援。

日本の出兵の直接のきっかけは英仏米からチェコスロバキア軍の救援を求められた事。チェコオーストリア・ハンガリー帝国の元で戦っていたが独立を宣言しロシアに投降。しかし、革命が起こりロシアはドイツと単独講和を結んだのでチェコ軍は孤立。→どういうことか、と言うと、当初チェコ軍はオーストリア・ハンガリー帝国の命令でロシアと戦う為に出てきてユーラシア大陸を流浪。極東に達し日本と出会った。何とまあ。

というわけで、チェコ軍はシベリア経由でウラジオストックから船で国に戻ろうとしたが途中、ソ連軍に遮られ立ち往生。日本が救出する事に。

日本もシベリアでヨーロッパの国の人々に接した。日本は連合軍に入って戦い、国際政治の舞台を意識。シベリア出兵は日本の現代史の大きな転換点だった。日本のインテリジェンス(情報機関)である「特務機関」もこの時出来た。

ロシア帝国が突然ひっくり返った〈革命〉なるものは日本には不可解。セミョーノフの白軍を通して赤色ロシア(ソ連)の恐怖や、それがユダヤ人の陰謀である事が吹き込まれ「シオンの議定書」が紹介された。

宮沢正典は「ユダヤ人論考」(新泉社1973)で「シベリア出兵は軍人だけでなくユダヤ人問題論議と関わるであろう多くの民間人を従軍させていた」その1人、樋口艶之助は神田のニコライ神学校を出てペテルスブルグ神学大学に留学。帰国後、陸軍諸学校のロシア語教授に就任。彼は3年3ヶ月シベリアに従軍。帝政ロシアを愛し、ボリシェヴィキの革命とそれを唆したユダヤ人を憎んだ。結果、「シオンの議定書」を最初に紹介。1912年、「猶太禍」(内外書房)を北上梅石の名で出した。ユダヤ・日本同祖説を唱えた小谷部全一郎酒井勝軍もシベリア出兵に従軍。

布川孫市、増田正雄(国際政経学会)、久保田栄吉などの反ユダヤ主義者もシベリア出兵に加わっている。ロシア革命の衝撃とユダヤ陰謀説が結びついて反ユダヤに転じている。

同じくシベリア出兵に従軍した安江仙弘は東京外国語学校陸軍委託学生第一期生で1918-1920までシベリア。

1921年には参謀本部からユダヤ問題研究の為パレスチナに派遣された。この時、酒井勝軍が同行。安江は1938年、関東軍大連特務機関長となった。

反ユダヤ主義のリーダーと言われた四王天延孝は第一次大戦中、フランス軍に従軍。アンドレ・スピールの「猶太人と大戦」を読みユダヤ研究に入った。

陸軍の安江に対して海軍のユダヤ通は犬塚惟重。1920年のシベリアでユダヤ問題に目覚めた。

樋口李一郎は陸軍中央幼年学校で樋口艶之助にロシア語を学びウラジオストックハバロフスクハルビンの特務機関に勤務。

1938年3/8, ソ連の町オトポールからビザの無いユダヤ人が満州国に入ろうとして立ち往生していた。ハルビンユダヤ人協会の会長、アブラハム・カウフマンはハルビン特務機関長樋口李一郎に難民救助を求めた。樋口は人道上の見地から国境通過を許可。更に満鉄総裁松岡洋右に依頼し救援列車を手配してもらった。樋口は陸軍士官学校石原莞爾、新村穣、安江仙弘と同期だった。渡辺勝正は「真相・杉原ビザ」(大正出版2000)で樋口が「フグ計画」の支持者だったと明かしている。李だけに。

樋口は二万人のユダヤ難民を助けたという説が伝えられた事があったがこれは誇大で実際は100人前後。1938年の満州にはユダヤ難民を受け入れようとする人達が居た。

杉原千畝は1919年にハルビンに留学。シベリア出兵の状況は知っていたか。1924年、最初の妻クラウディア・セミョーノヴナと結婚後等ロシア人妻から情報が流れているとされソ連のスパイの疑いを受けた。その為ハルビンを離れ妻とも別れた。

白系ロシア人ユダヤ人を憎んでおり「シオンの議定書」も彼らによって作られた偽書ではないかと言われている。ちなみに四王天延孝の妻も白系ロシア人。その著書「猶太思想及運動」で四王天は「今回の戦役が猶太戦争とさへ名付けられてゐるのだから、講話会議の際必ずユダヤ問題が論議せられる事は疑ひの余地は無い。既に皇紀二千六百年初に米国国務次官ウエルスが平和工作の為欧州へ渡った時ヒトラーユダヤ人を居住させる国としてパレスタイン、マダガスカル島エチオピアを以てすることにした腹案を示したと伝へられた。恐らくユダヤ人等はアフリカなどよりも将来性ある満州支那を望むことになるであろうから、皇国としては充分之に対する策案を練って置く必要がある」この本が出たのは1941年7月。12/8の日米開戦前。大戦後について予想し満州ユダヤ人の国が出来るかもしれないと予想。それかフグ計画を牽制しているのか。彼は親ユダヤ派を批判。ユダヤの思想に共感したり同祖論を唱えたりする人々は勿論、八紘一宇の立場からユダヤを受け入れるのは危険としている。

日本は初めは満州の事を朝鮮に続いて併合しようとしていた。それが独立国計画に変わった。1928年張作霖爆殺事件が発生。張は奉天吉林黒龍江という東3省(満州)を支配する軍事政権を築いていた。日本は張を操り蒋介石南京政府に対抗させていた。しかし関東軍は張を排除し直接の支配を狙っていた。そして、張の乗った列車を爆破。これは関東軍高級参謀河本大作の謀略。他国の支配者を暗殺したにも拘らず日本政府は軍部の圧力で河本達を厳罰に処す事が出来なかった。最低。

関東軍が更に暴走した結果が1931年の満州事変。満州事変から満州国成立へのシナリオに参加していたのが石原莞爾張作霖爆殺事件後河本は関東軍から外されるが石原は彼の後継者として高級参謀に。河本の侵略論を引き継いだ。

今でも最良の石原論と思われる青江舜二郎「石原莞爾」(中央公庫1992)は流石に河本と石原の繋がりを突っ込んで書いたものを私はまだ見ない、と指摘。

1932年8月、関東軍の幹部は板垣征四郎を残して異動。本庄繁、石原莞爾、片倉衷、和知鷹二、竹下義晴等。関東軍司令官は本庄中将から武藤信義大将へ。

満州イスラエルを!

1937年、第一回極東ユダヤ人大会が開催。ハルビン特務機関長樋口李一郎少将と大連特殊機関長内定の安江仙弘も招待される。また、犬塚惟重海軍大佐も傍聴。ハルビンユダヤ人協会のカウフマン博士から日満国策への協力の申し出。

1937年からユダヤ資本を導入して満州の殖産興業をしようとする動きが高まった。中心は日産コンツェルン鮎川義介満州重工業株式会社を作った。

1939,12月、第3柿極東ユダヤ人大会はハルビンで開催。ナチによるユダヤ人迫害は激しさを増し(←嘘だけどね)ユダヤ難民が上海にも流れ込んで来た。

今日はここまで。

何故、日本(関東軍)が中国を侵略したのか、流れが何となくわかった。

本当は背後で誰が糸を操っているかわかればもっといいけど。

 

7時に畑へ。

キャベツとブロッコリーのアオムシを駆除した。

 

その後、衆議院選挙の投票へ。

空いていたのであっという間に終わった。

 

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書。

15時半から夕食の用意。

直後、長女がゴルフから帰宅。

バイト帰りの次男と投票に向かった。

16時に長男一家が到来。

投票を済ませて来たそうだ。

17時から夕食。

バタバタしたが何とか写真は撮影。

里芋・じゃがいも・さつまいもと塩麹&甘酒&中華麹漬けの手羽元のオーブン焼き、スモークチーズ&プロセスチーズ、鰯のつみれ汁、サラダ、チーズ載せトルティーヤ、ウォッカ梅酒ロック。

他の人達はビールや赤と白ワイン、ウィスキー、日本酒等思い思いに呑んだ。

19時にお開きに。

お皿は長女が洗ってくれた。

このあと、選挙の結果をチェックすることに。

うちは3年前にテレビを処分して無いけど、例のごとく「大勝利〜‼️」てテロップ出たんか?

調べてみる事に。

 

歩数計は5693。

充実した一日だった。