2024/10/24木曜日
5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり作り。
8時半に畑へ。
キャベツの苗に水遣りしたあと、他の作物のパトロール。
大根の根元に緑色の液体が撒かれていた。

他の株に比べ葉っぱに元気が無いな、と調べたらこれよ。

それ、犯罪だから。
9時過ぎに図書館と買い物へ。
帰宅後、早速読書。
岩田明著「十六菊花紋の謎」
この著者は、この謎を解くためにイラクまで行って調査をしている。
まずはシュメール文明とシュメール人について。
シュメール人は目が大きく鼻も大きい。身長は高からず、つぶらな黒い瞳で髪の色も黒。肩幅は広く頑強な体躯をしている。一夫一妻を守り温和な性格の海洋民族。
沼や河川の葦の中を巧みに小舟を操って人や物の輸送を行い、又遠く外洋航海にも出掛けている。農耕面では麦や野菜、養蚕、綿、ゴマなどの栽培を始め動物の飼育にも優れた技術を発揮。特に天文、数学、法律などの学問や、建築、美術、工芸、宗教、哲学、王制などあらゆる面で人類の文明の基礎を作り上げた。
やがて、この豊かな生活と財宝を狙って、しばしば中東山岳地帯の狩猟騎馬部族が襲ってくるがその都度激戦の末撃退。遺跡から出土した石灰岩製の戦勝碑からこうした史実が判明している。←キターーー!コーカサス山地から爬虫類人的異星人が創った人類(ホモサピエンス?)が大挙して泥棒/強奪に来た!
約三千年に渡ってメソポタミア南東部を開拓し一大文明を築き上げたシュメール人はウル第三王朝(BC2050〜1950)の興隆期を最後に滅亡する。
その後のメソポタミアはアモリ族によるイシン王朝やエラム族の建てたラルサ王朝を経てバビロン第一王朝のハンムラビ王により統一国家が樹立される。←シュメールの遺産を使い"メソポタミア文明"を築いた。シュメール文明と言うべきでは?
捕らえられた最後の王イビシンは山へ連れ去られるが一部の部族は北方へ逃れアルメニア地方へ定住したと言われている。イラン南西部に位置する「スサ遺跡」から発掘されたシュメール・アッカド王朝彫刻の最高傑作、ナラム・シン王の戦勝碑に刻まれた王家のシンボルは十六菊花紋である。
筆者はイラク航空機内でイラクの人々の乳児に蒙古斑があるか尋ねるとスチュワードの1人が自分や兄弟の子供14人に確かに蒙古斑があったと教えてくれた。
バグダッド大学のアワッド博士は「イラク人にはシュメールの血が入っているがシュメール人はアラビア人ではない。中央アジアから海を伝ってイラク南東部に入り人類最初の文明を築いた。そして、メソポタミアから消えていった。まさに謎の民族である」
更に、シュメールの建設した二千年にわたる文明論と世界最初の古拙楔形文字=古代の楔形象形文字を発明した偉大さについて話してくれた。
シュメール人についての最も古い伝承は、太古に七人の賢者が海から現れ人々に文明を教えた、という内容である。その最初の1人がウルに現れた。この話を立証出来るのはウルの西方約6キロの所にあるエル・ウベイド遺跡である。
また、シュメール人は楔形文字を発明しただけでなく多くの記録や遺品を残した。特に初期の象形文字から次第に変化して行く過程が年代ごとによく整理されており驚くばかりであった。
バグダッド博物館にはシュメール人の交易記録も残されており古代に船を使って外国と貿易を行っていたことが判る。それによるとウルやエリドゥ、ラルサなどの港から遠くインドやアジア方面に航海していたものと思われる。
チバイシュ(Chabaish)はボートで回りマディーフも見学。
第三ウル王朝の最盛期に亡くなった世紀の美女、シャバアッド王女の墓を訪問。
ウル遺跡に近いナシリヤの町に博物館がありアラビア語のパンフレットにシャバアッド王女の写真が掲載されていた。更に北部騎馬民族とシュメール人との戦闘絵図もシリーズ絵巻風に画かれ販売されていた。
ナラム・シン王の戦勝碑に刻まれた3つの十六菊花紋は王家の威光を誇示したものではないか。海洋民族である優れたシュメール人が考え出した航海計器の十六方位盤が由来ではないか。船乗りが使っていた羅針儀又は日時計を平面に図案化したものではないか、と推論。
日本の道祖神の姿はシュメールの王と王妃の手を握り合っている姿に瓜二つ。

シュメール人の交易の積荷。
輸出品 麦 牛 油 タール
輸入品 金 銀 銅 飾玉
→そりゃあ、泥棒さん達に狙われるわ!
就航先の港名はマガン(オマーン)メルッハ(インドかマラッカ海峡付近)
BC1200,インダス文明はインド北西部の山岳地帯から侵攻してきた騎馬民族のアーリア人によって壊滅させられた。
ハラッパー遺跡は洪水によって破壊された跡が。←奴らここでもやってんな。出土品は銅・青銅製の平板状の斧、ノミ、槍先、鏃、ナイフ、釣針、柄鏡、腕輪、小玉、彩文赤焼土器、幾何学文様土器←縄文式土器や!、凍石を彫って作った印章。栽培されていた植物は大麦、小麦、豆、ナツメヤシ、ゴマ。家畜は牛、水牛、羊、豚、犬、単峰ラクダ、象、猫。野獣、魚、亀なども食していた。
コタンの里はシュメールの故郷
インダス河を北上しペシャワールの町を経てガンダーラの仏塔跡を左に見つつ進むとカラコルムの雄大な山脈がそびえ立つ。そのカラコルム峠を越えると嘗ての緑の桃源郷、コタンの里への道が通じている。
この道はシルクロード・古代インダスルートの一つ。海抜1410mの高地にあるコタンの里は現在ホータン=和田(Khotan)と呼ばれている。これは1959年に中国・新疆ウィグル自治区南部の旧県名、コタン=和闐を改めた新しい地名。
8611mの巨峰、チョゴリ山=K₂山を遥かに臨み東西文化交流の中心地として栄えたコタンとは如何なる都市であったのだろうか。コタンはカシュガルの南東方432キロに位置。タクラマカン砂漠の南を流れるユルン・カシュ=玉竜哈什川に沿ったこの町は今でも養蚕業、手工業が盛ん。生糸、綿、絹織物、敷物、紙、皮製品などを産出。
ユルン・カシュ川から取れる珠玉は名品。白玉川とも言われ支流のカラ・カシュ川は黒玉川といわれる。
古代には巨大都市国家が建設されていた。コタンの都に住む人々は互いに礼を重んじ純朴で和を尊んだ。水田耕作も盛んで灌漑用水のあとが残っている。コタンの人々は多神教で自然の多くの神々を崇拝していた。
現在、砂漠化している中央アジアはかつては緑の大平原。コタン周辺の遺跡からはメソポタミアやイラン、インドとの交易があった事を証明する多くの出土品が発見されている。
秦の始皇帝、魏の拓跋氏、ヨーロッパに進出した突厥氏、匈奴族、インドへ向かった貴霜月氏も中央アジアを根拠地としている。スメル語のガダ(Gada)は布の意味でヨーロッパ語のカタン、コトン、アッシリア語のケタン、日本語のハタ、ワタなどコタンをルーツとする多くの言葉が残されている。
崑崙山脈の西麓にあったコタン域の南側に位置するカイラーサ山=現・カンリンポチェ山が最高峰で高さは9060m。このカイラーサ山がスメル山、即ち「崇高なる霊山」である。
アーリア人は中央アジアからコーカサスの山岳地帯で発生。イラン北西部地帯と国境を接するコーカサス地方のマイコープ遺跡、トリアレティ竪穴墳墓からはBC3000年ないしBC2000年にかけて既に高度な治金術が発達していたことを示す豊富な青銅器や金・銀の副葬品が発見されている。鉄製の四輪馬車も出土‼️すげーな。
印度アーリア人の社会は父権的で家父長や氏族の長によって統率された。
殷族のルーツは印度アーリアと同族のバラモン一族だったのでは。首都アンヤンはアーリア→アリアン→アンヤンと転じたか。その殷はBC800年頃、周の武王に滅ぼされる。山東半島の青島に逃れ、船で南朝鮮の仁川へ。インチョンはインの川。殷から来ているのでは。アーリア軍団は釜山に集結。ヤマトを目指す。民謡「アリラン峠」はアーリア軍の峠越えの歌ではないか。
対馬から北九州に船を進めたアーリア軍団は宗像に本陣を構えたヤマト軍団の猛攻撃にあって上陸出来ず、北上し島根県出雲地方に上陸。北九州への上陸を諦めた本隊は機を窺って九州西岸を南下し薩摩に向かう。が、ここで薩摩隼人の激しい抵抗に遭い南九州への侵攻を断念。次に島や半島が入り混んでいる天草灘を目指す。ここから有明海に入り佐賀地方に上陸。
アリアケ海はアーリア人が攻め込んで切り開いた地説もある。
佐賀地方で激しい戦闘が繰り広げられたことは吉野ケ里周辺の遺跡から発見された首の無い胴体や傷ついた多くの人骨が証明(泣)

イン族のルーツがアーリア一族でありその一族が周に攻撃され日本を目指した、という仮説は次の根拠に基づく。①印度アーリアや殷族が武器として用いた通称クリス型銅剣が出土している遺跡をイランから印度、中国各地、朝鮮半島南部、対馬、北九州、出雲地方一帯、有明湾と順に追っていった結果である。←あんれまあ!コーカサス地方から遥々やって来たんか。
②吉野ケ里遺跡の横穴を始め他の幾つかの遺跡から馬を船に乗せて運ぶ図柄や船の絵が発見されている事も騎馬民族のヤマト侵攻を想定させる材料となった。
③アーリア族の渡来を裏付ける専門家のコメントが吉野ケ里遺跡から発掘された大型管玉などのガラス製品に対して為されている。㈠発掘された製品は西アジアに起源を持つ巻きつけ技法で作られている。㈡鉛ガラス製であり作り方の幼稚さから見て日本又は南朝鮮東部地域で制作された。㈢卓越した大きさなので特別の目的で作られた。
島根県出雲の斐川郡斐川町の荒神谷遺跡から358本という大量の銅剣が発掘された。筆者はアーリア軍が上陸して構築した武器倉庫跡ではないか、と推測。
アーリア系イン族が殷王朝の最盛期にヤマトの国の存在を知り豊かな倭国に新天地を求め侵攻してきた。つまり、俗に言う倭国の大乱とはヤマト部族とアーリア系・イン族との戦闘では無かったか。今のところ、愛知県清洲町の朝日遺跡から発掘された銅鐸が青銅文化の東の端である。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書。
この、岩田明氏による著書は岩田氏の仮説等もストン、ストン、と入ってくる。
自分がこれまで蓄積した知識と矛盾が無いからであると思われる。
岩田氏による仮説や推論が多い、ということはそれだけシュメール人やシュメール文明に関して調べる人が少なかったということかもしれない。
中央アジアらへんに古代人類が一杯住んでたことはわかった。
わいは、コーカサス地方じゃなくてコタンの里系統、というのも確信。
小人やし。
自分のルーツがわかるってこんなに嬉しいのな。
17時から夕食作り。

大根とちくわぶの煮物、帆立と豚タンと豚ハツの焼き物、モヤシ竹輪サラダ、蜆とじゃがいもの豆乳味噌汁、玄米ご飯、ウォッカ梅酒ロック。
今日は自分が玄米ごはんを三杯食べた。
夫は肉も残し少食だった。
お皿を洗ったら営業終了。
読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計は5853。
充実した一日だった。