2024/9/12火曜日
4時半に起床し朝食作り。
5時45分に畑へ。
まずは、竹酢液をプレゼント。
ミニトマトの元気が無い事に気付き、撮影。


すぐ、近くに緑色の液体もぶち撒かれていた。
種を蒔いた所にも。

何を撒いてんだか。

6時半に帰宅後シャワー&洗濯。
8時半に孫達と買い物へ。
10時半に帰宅後、買ってきた食材を冷蔵庫に入れたら、漸く読書の時間。
光秀の最後の書状は山崎の戦い前日の天正十年6/12の「雑賀五郷土橋平尉宛光秀書状」これによると光秀が義昭を奉じていた事は確実。

光秀は義昭が幕府内で出奔せざるを得なくなった際の張本人。両者は激しく対立。義昭と光秀が恩讐を超えて利害を一致させた理由は足利幕府体制そのものの制度防衛であった。共通の敵は織田信長。
天正九年に義輝政権以来継承されてきた長宗我部氏を支援する政略の変更で信長と光秀に政治的な齟齬が発生。信長は長宗我部氏に土佐と阿波南部、阿波北部と讃岐を三好康長に与え三男の信孝を康長の養子に。
そんなプランを足利幕府側の光秀が認める筈は無く、信長と対立。
では、信長はどうすれば良かったのか
信長死後、子の信雄も光秀と懇意だった「奉公衆」曽我助乗を召し抱えている。
子の尚祐も信雄の祐筆となり、後に秀次、秀吉、秀忠の祐筆になっている。この事からも武家故実・儀礼に於いて「室町幕府奉公衆」の実力が活かされた。
ホトトギス、鳴かぬなら殺してしまえ、と謂われた信長だが、実際は敵に対して寛容だった。
信長は卑怯を嫌い、裏切った本人や一族に対しては残虐に対処。一族郎党が殺された場合も残虐に対処。
しかし、家臣は殺していない。粛清したのは佐久間信盛くらい。
源頼朝や北条義時などに比べれば内部管理体制は甘い。頼朝が義経や範頼等の兄弟や叔父志田義広、源行家を殺害し、北条時政が梶原景時や比企能員を滅ぼし、義時が和田義盛を倒し、時頼も名越光時や三浦一族を滅亡させたような厳しさが欠けている。毛利元就も重臣の井上一族を誅殺。足利尊氏ですら弟直義を殺害。
転換期の信長に問われていた事は問題が起きないよう明日の敵を出し抜いて先手を打つ事。信長は足利幕府の官僚機構を自身の権力に吸収しこれに代わる新たな武家政権を構築しようとした。信長の犠牲により前政権の官僚機構はほぼ壊滅の物理的な打撃を与えて清算した上で再編する必要が。家康は信長の失敗の理由を当事者の一人として知り尽くし。
豊臣氏を滅亡させ天下人が統治権を握り既存の官僚機構を物理的に破壊した上で自前の体制である幕府を創り上げた。
同じことが明治維新で起きた。フリーメーソン連中はこれを真似して江戸幕府を倒したか。
徳川氏に大政奉還させ統治権を握り、王政復古の大号令クーデターにより既存の官僚機構を物理的に破壊した上で自前の体制である明治新政府を創り上げた。
自前の体制を創り上げるには既存勢力の強さが半端無かった。その点、明治維新の際は、そこに至るまでに抵抗勢力の筈だった幕府の俊英幕臣・幕吏達があの手この手で粛清され幕府の屋台骨は骨抜きにされていった。
めっちゃ勉強になりましたわ。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書。
14時半に図書館へ本を返却に。
そして、11冊借りてきた。
今回は全て延長不可設定になっていた(笑)
15時過ぎに孫達が来訪。
16時半まで遊んで帰って行った。
17時半から夕食作り。

秋刀魚&大根おろし、焼き芋、鶏と大根の煮物、キャベツと茄子の漬物、じゃがいもとカボチャのサラダ、ウォッカ梅酒ロック。
これにゴボウの炊き込みご飯。
めっちゃ美味しくて2回お替りした。
後片付けを済ませたら営業終了。
宮本昌孝著「剣豪将軍義輝」を読むことに。
歩数計は10692。
充実した一日だった。