2024/9/1日曜日
5時半に起床。
6時半に畑へ。
まーた、全ての支柱が崩壊。



DS連中はどうしても、わいの20坪の畑を破壊したいようだ。
夫が唯一関与しているネギにまで手を出してきた。

雨にかこつけてミニトマトも殺しつつある。


この、隣の芝生が青く見えてしょうがない、嫉妬に塗れた連中、どうすればいい?
河の向こうから見てるだけじゃなく、自分で栄光を掴み取ればええやん。
支柱を治して8時に帰路に。
帰宅後、シャワー&洗濯。
9時半から読書。
昨日に引き続きフロイス本。
信長は1571年、天台宗総本山比叡山延暦寺の僧兵達が敵対した浅井・朝倉方に着いた為比叡山を焼き払った。仏教勢力を憎んでいた訳ではなく目前の敵を排除。

「多聞院日記」などに「僧達は修学を怠り、一山相果てる有様」と記される。
「信長公記」は比叡山の焼き討ちを「僧・俗・児童・学僧・上人、全ての首を切り(中略)そのほか美女・小童・数も知れぬほど捕らえ、信長の前に引き出した。悪僧はいうまでもなく哀願する者も決して許さなかった」と伝える。比叡山は女人禁制の筈だったが女性(美女)が多くいたという点からもその堕落ぶりが窺える。死者は「信長公記」は数千人。フロイスは書簡で死者約1500人としている。また、1573年には百済寺を焼き討ち。この寺が信長と敵対関係にある近江の六角氏や一向一揆衆と蜜月の関係にあったからとされている。
信長の面前での論戦でフロイスらを敵視した日乗が朝廷に働きかけ宣教師追放の勅許を取り付けた。この窮状を信長に訴える為、フロイスは和田惟政の紹介状を懐に入れロレンソ了斎を伴い岐阜へ。当時の人口は8000人から一万人。全国から商人やら旅人で賑わっていた。←楽市楽座や〜!
フロイスは「バビロンの混雑を思わせるほど」と表現。
まず、通されたのは金華山麓の居館。宮殿は鏡のような光沢を持った良材を用いた廊下で囲まれ庭園が数か所あり美しい魚が多数泳ぐ池があり溜池から水が各部屋に分流し思いのまま使用できる泉が邸内の至る所にあった。

その後、信長は朝廷と将軍に対しフロイス達を庇護するよう求める朱印状を発給。
翌日、岐阜城天守閣にも招かれ豪華な部屋で茶が振舞われた。そこからは美濃や尾張の平野部が一望出来た。

暫くすると信長はフロイスの食膳を、次男の信雄はロレンソの食膳を持って来た。ロレンソは膳の内容は書いてないが同様に饗された津田宗及に出された料理の内容が記録にある。(本膳)キジの焼鳥・鮭の塩引・鮒ナマス・前塩・蔓汁・御飯(二の膳)鱒の焼物・海月・このわた・辛螺壺入・干し鮑・鱈引(三の膳)鯉の刺身・貝盛・生白鳥汁・菓子
食後、絹衣の袷、白帷子を持参しそれを着るよう言った。
そして、京都及び日乗との関係について、何の心配もいらぬ、と言い添えた。

それにしても、信長のフロイスに対するホスピタリティに驚く。
そして、信長居館と岐阜城の壮麗さにも。
更に、食膳の内容も非常に興味をそそられる。
一見したところ、海鮮メニューが多い。
辛螺壺入て何や?
あと、前塩も気になる。
信長は遠路遥々やって来たフロイスに対し敬意を表したようだ。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後は最新情報をチェック。
もしかして、DSの皆さん暴れてる?みたいな事変が多々見受けられた。
ロシアでのウクライナによる民間人を狙ったミサイル攻撃には閉口した。
いつまでやるねん?
16時半に長男一家が来訪。
17時から夕食。
画像は撮り忘れ。
嫁はタコスを食べた事が無い、と言いつつめっちゃ食べていた。
お気に召したらしい。
19時にお開き。
お皿は長男が洗ってくれた。
歩数計は6798。
充実した一日だった。