2024/8/27火曜日
4時に起床し朝食作り。
5時半に畑へ。

7/24植えのミニトマト。

7/30植えのミニトマト。

このあと、久しぶりに鍬を振るった。
めっちゃ大汗掻いた。
7時半に帰宅後、シャワー&洗濯。
ベランダで水遣りをしていると綿花が。

このあと収穫。
朝の家事を済ませたら、読書。
昨日に引き続き奥山景布子著「葵の残葉」
元治元年10/22, 慶勝は大阪城に居た。8/7に長州征討軍総督に任ぜられてから2ヶ月半。引き受けるに辺り、参加大名の顔ぶれ、陣立て、毛利家の処分、全て尾張に一任を、と念を押した。
慶勝は全権委任でなければ引き受けぬ、とした。
慶勝はこたび参陣の21家中のそれぞれの重役と個別に面談。薩摩藩は西郷吉之助が来た。
西郷「長州は今尊攘派と俗論派で争っているから罪を認める者を受け入れれば無理に責めずとも勝手に勢いが小さくなるのでは。一族内で片を付けられるよう吉川家を説得申そう」
慶勝 記録は後世の助けになる。あるものをそのまま写し取れるこの技があれば、書物以上に貴重な情報を残せるはずだ。←ホントそれ。
慶勝公はこの時代まだ珍しかった写真機を所有。
何人もの人々を記念に撮影していた。
西郷は迷惑そうに首を横に振った。←西郷は拒否。それにしても何故西郷の写真は偽物が出回っているのか?何か疚しい事でもあるんか?これだけの事をやった人物の真の写真が出せないてどういう事?
慶勝公は首実検にも写真機を使用しようとしたがそれは側近に止められた。
慶勝は全権委任の総督として、内戦を避ける為に尽力した。今、重視すべきは長州の処分という国内案件ではなく如何にして海防を整えるか、である。
慶應元年(1865年)4月、元号は元治から慶應へと改元。前年の京都騒乱によって乱れた人心を一新したいという名目。慶勝は尾張へ戻り家中の改革へ力を入れる事に。そこへ、再び長州征討軍を派遣する情報が。しかも、その総督は玄同(隠居した弟の茂徳)に要請。
総督の件は何とか紀州の茂承になった。が将軍家茂は上洛の途中、名古屋城本丸に宿泊。その際、慶勝は長州征討を止めるよう進言したが松平宗秀に制された。更に、玄同は将軍家茂から一字もらい茂栄と改名し家茂に随行する事に!誰の策略だ?茂栄なら傀儡として御し易いからな。
慶應3年、慶勝の男子が立て続けに3人亡くなった。←暗殺やろ。
成瀬が慶勝の代わりに上京。朝廷と一会桑、幕府、薩摩藩の複雑な関係を目の当たりに。御三家が上京しないのは尾張の今後の為に良くない。不測の事態が起こった時に蚊帳の外になるのでは、、、と報告。
慶勝は容保へ京都守護職を辞するよう書を認めた。定敬にも京都所司代を辞するよう。京都に滞在する屈強な会津兵の存在は薩長に標的される恐れがある。
はい、王政復古のクーデター起きたーーーーーー!薩摩、尾張、越前、土佐、久光、慶勝、慶永、山内豊信が政権メンバーに。あれ?尾張居るやん!慶勝も!?
更に大坂城へ入るよう命令が。入れ替わりに毛利敬親が勅命により兵を率いて上洛。偽の明治天皇の勅令により朝敵も交代。
大久保利通は強い我意で徳川を目の敵にしている。慶永と慶勝は慶喜も議定の一員となるよう他の議定や参与に働きかけ。これに強く反対しているのが薩摩から加わっている者達。特に大久保利通は慶喜に対し内大臣の辞職と徳川宗家の領地全ての返上を要求。
慶勝は「新政府の為の財源供出は、諸家の石高に応じての分担とすべきでしょう。」石高を持っていない大久保と西郷以外は賛成。慶永が「では、この議、尾張殿と某とで大坂城へ伝達に参ります」とダメ押しすると、大久保が「チッ!」と舌打ち。この直後、薩摩藩が三田江戸屋敷で飼っている浪人共に庄内藩の屯所を銃撃させ2人が死傷。更に江戸城に放火、と幕府を煽りまくり。幕府は三田藩邸に討ち入り。薩摩藩は炎上。その間に犯罪者の浪人共は品川停泊の薩摩藩の軍艦に乗って逃亡。←薩摩藩は藩ぐるみで犯罪やっとるやないかー。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書。
15時に孫達がが来訪。
18時に帰って行った。
18時半から夕食作り。

鶏もも味噌漬け、梅奴、サラダ、さつま揚げ、キュウリの漬物、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿を洗ったら営業終了。
最新情報をチェックする事に。
歩数計は11984。
充実した一日だった。