arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1079日目と畑と徳川慶勝公

2024/8/26月曜日

4時半に起床。

5時に畑へ。

まずは、緑のカーテン

ゴーヤの黄色と朝顔の白とインゲンの白と紫の花の競演。

その隣では冬瓜が実り始めた。

そして、実を付ける気配の無いミニトマト達。

とりあえず花は咲いた。

元気が出るように、にがり水を振り掛けた。

6時に家路に。

 

帰宅後、シャワー&洗濯。

ベランダでの水遣りも済ませたら9時に買い物へ。

10時過ぎに帰宅後、漸く読書タイム。

 

昨日から奥山景布子著「葵の残葉」を読書開始。

幕末に活躍した高須4兄弟のお話だ。

4兄弟の中で最も有名なのは会津藩主で京都守護職を務め孝明天皇の信任が厚かった松平容保公。

が、この著書では長男の徳川慶勝公が主役。

この方、父は水戸家から高須藩に養子で入った松平義和公の次男、義建公。

ある日、慶勝公は病で臥せっている父義建に呼ばれた。

そこで短冊に書かれた和歌を見せられた。

 

容保「行くも憂し 止まるも辛し いかにせん 君と父とを思う心を」
義建「父の名は よし立てずとも 君がため 勲あらわせ 九重のうち」

これまで数々の幕末動乱本を読んだ自分にはわかる。

容保公は京都守護職就任を要請され、迷い悩んでいる心情が伝わる。

それに対し父の義建公は父の事は心配せず帝に仕えなさい、と返歌。

義建公は先が長くない事を悟り、長男の慶勝公に義建へ「ふ、び、ん、、、た、の、む、、、」と声を振り絞った。

ここから慶勝公は長男として頑張る。

ちなみに、慶勝公の母と容保公の母は異なる。

慶勝公は正室腹。

容保公は側室腹。

それでも、恐らく、父義建公の導きが良かった為、兄弟は頻繁にコミュニケーションを取り、幕末の動乱を生き抜いて行く。

幕末、幕府の重鎮達は京都へ駐在。

その際、慶勝は、京の名物は古来より「おなご、加茂川の水、寺社」と言われるが、
慶勝にしてみれば「牛の糞、さらし首、はやり風邪」←DSの大好物ばかり~。

ところが、将軍家茂と後見職慶喜は揃って京都を離れようとした。

それに対し、慶勝と容保は「本来、征夷大将軍とは、夷狄を討つ軍を率いる者に与えられる職名。それを今将軍と後見職両所揃って離れれば徳川一門の威信に関わります」と説得。

すると、慶喜は将軍家茂の名で「五月十日を以て攘夷を実行するやう諸大名へも布告する」旨の文書を朝廷に提出。

慶勝「なぜ五月十日なのですか」

慶喜「取り立てて意味はありません。とりあえず日月を告げないと、とてもここ(京都)を出られそうにありませんからな」

慶勝「さように無責任なことを言って、これといった方策もないまま、むやみに列強と衝突する家中(←長州)があったらいかがなさいます」

慶喜「なあに。まさか、いくら幕府が布告したところで、どこの大名も今、本当に列強を砲撃したりはしませんよ」←いやいや、そのまさか。長州がやったんよ。

京都で朝倉幸之助事件が起きた時も慶勝は活躍。

4月下旬、浪人朝倉幸之助が幕府の秘密を知らせる、と有力公家に接触
会津方が朝倉を捕らえると公家方から抗議の声が。それらの前に慶勝は朝倉の身上書を突き付け、「将軍からお伝えすべき事あれば補翼たる慶勝が必ず沙汰申し上げる。皆様はこの慶勝よりも、かように素性卑しき無類の徒に信を寄せると言われるか」と一喝した。

公家もちゃんと裏取りしないと!

幕府は生麦事件の賠償金問題でもグダグダな対応。

帝から賠償金を支払わないよう言われていたが、、、。

慶勝はそれを何とか取り繕うと尽力。

賠償金を支払う事と攘夷を実行する事は話の次元が違う。異国と見れば何であろうと闇雲に襲い掛かる態度は正しい攘夷では無い。こちらに非があれば認めた上でなければ攘夷実行は出来ない。慶勝は粘り強くこの持論を展開するつもりでいた。しかし、その意図を邪魔したのが弟の茂徳であり、完全に潰したのが小笠原。茂徳は幕府の開国派に担がれた。それにしても慶喜は何故茂徳や小笠原を止めてくれなかったのか。←慶喜のブレーンにはフリーメイソン日本人第一号の西周と第二号の津田真道がおる。

そうこうしているうちに、国元の尾張でトラブル発生。茂徳の側近のうちにいた慶勝側に情報をもたらしてくれていた者数名が4月中に罷免されていた。つまり、茂徳が江戸を出立するまで使者の件が慶勝に伝わって来なかったのは明らかに慶勝に口を出させまいと意図する者達がいた。

昨年一掃したはずの茂徳派、事実上は付家老竹腰率いる反慶勝派、が息を吹き返すのを許すわけにいかなかった。

慶勝は隠居の身なので名古屋城の隠居所に入った。尾張藩主茂徳は二の丸に。

老中の板倉は大阪城警固を拒否した件を理由に茂徳に引退を迫れ、と書状をよこした。

茂徳が当主のままではいつまた御三家筆頭の地位と格を幕府の開国派に利用されるか分からない。

5月の茂徳上京未遂の一件では慶勝は家臣達に「京都へ来させるな」と厳命。美濃路伏見宿で茂徳の側近と一触即発の睨み合いに。

帝は夷狄が嫌いで心から攘夷を望んでいたが一方で幕府を蔑ろにする長州を決して快く思っていなかった。←尊王に疎まれる長州。

昨年(1863年)8月に京都を追われた長州勢は伏見や嵯峨、山崎などに大勢で着陣。砦を築いて大砲を並べ如何にしても京市中へ入らんとする姿勢を見せている。

禁裏御守衛総督慶喜が陣を解いて退去するよう言っても長州は聞き入れない。朝廷及び熊本、薩摩ら諸藩は武力で制圧すべきと主張。が、慶喜が動かない。

長州が第一の標的とする容保は今、帝の特別な計らいで御所内の凝華洞に仮の宿所を賜っている。帝は容保に絶大な信頼を寄せており長州の者の入京は許さない、という意思を示している。

平治元年7月19日蛤御門の変
その、前日、長州の家臣による投文が京中の公家・大名家に投げ入れられた。

23日に蛤御門の変の処分が発表された。長州藩主毛利慶親、定広父子の官職剥奪。有栖川宮や前関白鷹司輔煕始め長州に加担した公家10余名の参内停止。

 

今日はここまで。

今まで全く注目されていなかったが高須4兄弟の長男、慶勝公の物事の判断力と先を見る力は素晴らしい、と感服。

高須4兄弟、凄いな。

 

12時に昨夜以来の食事。

15時にお孫ちゃん達が来訪。

17時まで癒しの一時を過ごした。

18時から夕食作り。

チーズinハンバーグ、ブリアラトマト煮、カボチャサラダ、ウォッカ梅酒ロック。

お皿を洗ったら営業終了。

読書をしてから寝ることに。

 

歩数計は9122。

充実した一日だった。