2024/8/10土曜日
4時半に起床。
5時に畑へ。
7/24に植えたミニトマト2つのうち1つは若芽が出てきた。

7/30に植えたミニトマト苗はまだ元気。

朝顔がやっと開花。

白い朝顔だった。
水遣りをしたら6時半に帰路に。
帰宅後、シャワー&洗濯。
ベランダガーデニングの水遣りも済ませたら、10時から読書と調べ物。
立花城を攻めていた島津軍は豊臣軍が迫っている事を知り撤退する事に。
博多の街に火を付ける焼き払ってから。
後にこの惨状を見た秀吉は博多の復興に尽力した。
宗茂の母宋雲尼は秀吉に降伏した龍造寺政家の部下によって救出された。
が、弟の統増夫婦は薩摩軍が警戒を強めた事により肥後から薩摩へ移した。
川内川上流の祁答院(けどういん)へ監禁した。
降伏した秋月種実の居城荒平城に滞在中の秀吉の元へ忠誠を誓う九州の諸将が駆け付けていた。
豊前からは秋月一族の高橋元種、長野、城井、山田、八屋、広津、宮成、時枝。
更に彦山の衆徒に加えて壱岐、対馬の島から、平戸、大村、五島など海に面した豪族達も。
そこへ立花宗茂は2,300騎を率いて到着。末座に着いたのを秀吉は見つけ「ちこうよれ」と手招き。
秀吉は諸将に向けて言った。
「者共聞け。先般、恐れ多くも帝のご命令によって俺が発した御教書に対し協力する者は殆ど居なかった。しかしこの若い立花左近だけが孤城に篭り島津の大軍にびくともせず節を守り通した。更に長い籠城にも少しも気を屈する事なく島津家が引き揚げるとみるや追撃。多数を討ち取った。島津方の高鳥居城も奪取。その忠義は鎮西一、武勇も鎮西一。見事である。範とせよ」
秀吉の死後、五大老は朝鮮撤兵を命令。
撤兵は慶長3年12月まで掛かった。
秀吉の朝鮮侵略戦争で加藤清正はその拠点の蔚山城の守備を務めていた。
この時、明の大軍が押し寄せ蔚山城を囲んだ。
寒気厳しく食糧も欠乏。
馬まで食い尽くし加藤軍は飢餓状態。
この加藤軍を救ってくれたのが立花宗茂軍。
それを知った立花宗茂は「友軍を見殺しにするわけにいかない」と救出に向かった。宗茂軍は無事に救出に成功。
加藤清正はこの時の恩を忘れず、関ヶ原合戦後、改易にされた立花宗茂を「我が領地へ」と助けた。
何と数百名の宗茂主従を受け入れた。
関ヶ原の戦いに於いては西軍側で出陣。
大津城を攻めていたが関ヶ原での西軍の敗北を知り大坂に引き返す事に。
その途上、石田方の隊長が瀬田の唐橋を焼こうとしていたのを宗茂は止めさせた。
「源平のむかしから京に籠もった軍勢は必ず瀬田の唐橋を焼いた。焼いた側が勝った試しは無い。一般の庶民も使っている橋を落とせば庶民が嘆き悲しむ。」と諭した。
その頃、九州では不穏な空気が。
家康は鍋島直茂に関ヶ原に来るに及ばずとしていたが柳河に帰る立花宗茂を攻め落とせ、と命令。
直茂は宗茂と盟友の為悩んだ。
それに助け舟を出したのが宗茂に恩がある清正。
清正は直茂に「攻めるフリをしなさい。すぐ私が仲介に入る」と知恵を授けた。
清正も家康から上方に来るに及ばず、と言われていた。
宗茂一行は船で豊後に上陸。
待ち構えていた黒田軍の中を堂々と中央突破。
宗茂は柳河城に入る前に妻の誾千代が住む宮永に寄ろうと向かっていた。そこで見たものは、、、、、、、、、。
誾千代は紫縅の鎧を着けてまるで男のように床几にドッカと座っていた。
手にはムチ。
後には武装した侍女約200人がハチマキをし袂を絡げて薙刀を持っていた。
誾千代「私はあなた様の妻でございます。嘗ては立花城の主でした。今はその城を失った女城主でございます」
誾千代は鍋島勢が攻めてくる噂を伝えた。それを聞いて宗茂は誾千代を心配し城に戻らぬか?と尋ねると、誾千代は私はここ(宮永)で鍋島勢を防ぎます、と返した。
立花と鍋島を戦わせて両家の自滅策を画策した黒田如水に対し清正は二人を生き残らせる立場に立った。
その為には敗者の西軍の立花は絶対に戦ってはならない。
清正が立花を説得しようと瀬高まで来た時、既に立花軍は攻め寄せる鍋島軍を迎え撃って大奮戦中。
柳河城の北方一里半に八ノ院がある。
宗茂はここに陣を布いて鍋島軍を待った。到来した鍋島軍は12段に構えていた。
先頭に立って突入する宗茂は次々と鍋島勢を打ち破り十二段のうち九段まで打ち破った。
直茂は一瞬、立花勢に敗れるかも、と感じたその時「引け!両者共引け!」と大音声で間に割って入った猛将が居た。
加藤清正だ。
立花勢も引け!鍋島勢も引け!ここは俺に任せろ!
清正は宗茂に話がある、と脇の林へ誘った。
二人だけで話し合った。
清正は鍋島への降伏、それが嫌なら加藤清正か黒田如水への降伏、を勧めた。更に、「お主の身柄はこの清正が生命に代えて預かる」と誓った。←やべーな清正。かっこよすぎる。
城も領地も返上。
加藤清正預かりとなり肥後へと向かった。
家臣全員は連れていない。
130名に絞った。
暫く滞在したあと宗茂は京都行きを決め、家来は20名に絞った。
路銀が絶えると家来達は虚無僧をしたり竹細工を作ったりして主君を支えた。
いよいよ食べ物に困るようになり、宗茂は江戸へ行く事に。
そこは将軍のお膝元。
賑を見せる街では仕事に困らなかった。
ある日、得意の尺八で虚無僧をしていた家臣の十時摂津はならず者3名にしつこく恐喝された。
しまいには刃物で切りつけてきたのでやむを得ず3名共に一刀の元に斬り捨てた。
罪にはならないが形式的に取り調べを受け、立花宗茂家臣と判明。
この件は家康側近の本多正信まで上がった。
この件を聞いた本多正信は立花宗茂を秀忠のお相伴衆に登用することを提案。
実は本多正信自身も若い頃家康から離れ一向一揆に加担した過去がある。
そこから這い上がる際に大久保忠世に援助してもらい家族は食いつないだ。
これを持ち出しながら家康を説得。
家康は不承不承承知した。
過日、本多正信は宗茂が滞在している宝祥寺へ行き宗茂と話をした。
「立花家ではご家来方が虚無僧や労働者になって主君を支えていると聞いた。家臣がそのような気持ちになれる家風とはどのようなものなのか教えて頂きたい」
養父道雪殿から家臣に対して依怙贔屓するな、荒使いしてはならない、小さな過ちは咎めるな、国の法を犯す者については法の定めに従って厳しく罰せよ。
立花軍は負ける事は無かった。それは家中の和によるもの。
本多正信 「何故大津城を攻めたのか、何故石田三成に味方したのか。」
宗茂 「大津の一戦は故太閤秀吉公への某の忠誠心をお届けする戦い。某、若くして養父道雪殿にも実父高橋紹運にも死別。若年(確か19歳)の身で立花の城を島津五万に囲まれ孤立無援の某を後ろ盾になって励まし闘い抜かせて下さったのは太閤殿下。関ヶ原の合戦後、城を失い家も潰しましたが悔いはありません。全て故太閤秀吉公への御恩奉じの行いであった」
本多正信「現在の心境は?何故江戸に参られた?」
宗茂「寄らば大樹の陰という古い言葉がございます。江戸は将軍家のお膝元、賑わっておりますし、家臣も仕事を得るのに苦労を致しません。これはお陰様です」
宗茂は、嘗ての自分の行為は故太閤秀吉公への御恩奉じ。それは既に決着が、ついている。今こうして、江戸の一隅でささやかな暮らしが出来るのも徳川家の恩。その、徳川家が自分を召し出すのであれば喜んで受ける、と筋道を立てた気持ちを持った。
今日はここまで。
立花宗茂の本を読み始めてから心が洗われるような感動を覚える事度々。
明日も頑張ろう!て気になれる。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
あっという間に夕方に。
17時半から夕食作り。
今日は残り物多数なので画像は無し。
お皿を洗ったら営業終了。
読書をしてから寝ることに。
歩数計は10988。
充実した一日だった。