arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1061日目と高橋紹運

2024/8/8木曜日

5時に起床し洗濯と朝食作り。

畑は水はけが良くないので恐らく昨日のゲリラ豪雨により作業が出来ないのでお休み。

9時半に買い物へ。

10時半に帰宅後、漸く読書。

 

昨日に引き続き、原田種眞著「立花宗茂 乱世をゆく鎮西の勇将」

昨日は島津忠長率いる島津軍五万の大軍に囲まれた宗茂の父高橋紹運が降伏を促す使者を拒否しあくまで主君大友氏への義を貫く事を選択したところまで書いた。

かくして、高橋紹運始め岩屋城籠城者総勢763名は島津五万の大軍に挑む事に。

本丸南手、虚空蔵台の大手門 福田民部少輔を大将として60余人

虚空蔵台南手の大手門 伊藤惣右衛門を大将として80余人。

本丸と高田櫓の間の城戸 大将・城代・屋山中務少輔120余人。

本城甲の丸搦手 立花より籠城を願い出た吉田左京以下20余名

甲の丸 城将高橋紹運と旗本150人。

これによると、兵は総勢500人弱。

残りは兵の家族や近隣の農民。

皆、炊き出しや負傷者の手当等で助力。

島津勢は崖に囲まれた岩屋城へと果敢に登って行った。

が、上から岩を落としたり鉄砲で撃ったり、弓矢で射ったりとその登坂を阻んだ。

立花宗茂は立花城から密かに食糧や武器を送り支援。

島津軍は14日から攻め始めたものの攻めあぐねた。

島津軍は地元の農民に金を積み上げ間道や水源を聞き出し、立花からの支援部隊を壊滅し水源に土や落葉を詰め込み水を断ち追い詰めていった。

水が出なくなった事を知った紹運は婦女子や農民に路銀を持たせ城から脱出させた。

27日早朝から決戦の時は来た。

籠城勢は兵糧が絶えあばら骨を浮き立たせながらも戦った。

討って討って討ちまくった。

宗茂の傅役だった足立弥平次も老兵ながら得意の弓矢で数十人を射った。

一矢射るごとに一兵が倒れる。

余りに凄いので弥平次はすぐさま標的にされた。

そして、敵の強兵に倒され崖下へと落ちて行った。

それを見ていた紹運は手を合わせた。

紹運、宗茂と親子2代の傅役となった弥平次の天晴な最後を見届けた紹運は最後の最後まで戦いきり、櫓の上で屠腹。

天守の扉に辞世の句が書き込まれていた。

岩屋城を落とした島津軍は難なく宝満城を開城させ、いよいよ立花城へ。

そして、城から島津軍の様子を観察していた重臣達は遂に総攻撃してくるのでは?と推測した。

そこで、立花道雪以来の旧臣内田壱岐玄恕入道は一計を講じた。

自ら島津忠長陣へ出向き「降伏開城する予定だがその準備をする日数が欲しい」と願い、自ら人質に。

こうして援軍が到着する時を稼いだ。

玄恕入道は島津軍に於いても良く知られた名。

大切な客人として扱われ対面する島津の諸将と古今の漢籍、兵法、文物について論じた。

内田壱岐は大友家の軍師蒲池宗蹟に学び兵法衣川、八十余条の相伝を受けた、道雪以来の旧臣。

忠長の陣へ馬取と長刀を持たせた小者のみを従え単騎乗り込んできた。

しかし、この時既に援軍は関門海峡を制し神田元忠隊は門司城に入った。

22日夜、人質の内田壱岐はこの事を立花の間諜から聞くや翌日、身を浄めたあと忠長以下重臣に面会を求めた。

そして、昨夜立花城に援軍が入城した事、豊後府内にも長宗我部の援軍が渡海。

自分は虚言を用い日を稼いだ罪があるので、一死を以てお詫びする。

いざ、首を刎ねられよ、と告げた。

これに激怒しまさに斬ろうとする島津諸将を忠長が制し「入道が勝ちじゃ。死を以て城を救わんとする心、天晴れ。立花へ去るが良い」と馬を与え、兵を添え立花城まで送るよう命じた。

↑戦国武将の器て凄いな。

島津は急いで撤収。

宗茂はこれを追撃する事に。

反対する重臣も多々。

しかーし、宗茂は、「我が父紹運の仇敵島津忠長が今眼下を去ってゆく。これを黙視せんか、その怯懦の心は死すとも消えぬ。父の仇を報ぜず、母と弟の恥を雪ぐことも出来ず、どこに生を安んじるの意味があろう。〜もし斬死せんが泉下の父への良き挨拶となろう」

ちなみに母と弟は島津方の人質となっている。

24日、撤退する島津軍に火を放たれ炎を噴き上げる博多を退いて行く島津の後陣を立花勢は、かつは追い、かつは退き着々と戦果を上げた。

翌日、立花勢500は三里の道を一気に走り高鳥居城へ。星野兄弟を討ち取った。

宗茂は星野兄弟の義心に感じ2人の首を那珂堅粕村に葬った。土地の人々は吉塚と呼び地名に残っている。

高鳥居城を午後12時に陥したあとそのまま二里の山道を父の居城だった岩屋城へ。

岩屋城の守将は秋月方の臣桑野新右衛門の手勢300。

宗茂は小野右衛門に城内へ忍び込ませ火を付けさせた。

城兵は雪崩打って、態と寄せ手を手薄にしておいた四王子方面へ逃散。

一兵を損ずる事なく岩屋城を取り戻した。そして、実父紹運が屠腹した櫓を見上げ立ち尽くした。

本丸内の扉に残る「かばねをば岩屋の苔に埋てぞ雲井の空に名をとどむべき」の歌。

紹運の辞世の句だ。

そして、日没前に弟の居城だった宝満城開城。

後日、駆け付けた秀吉に「島津軍への追撃、高鳥居城陥落、岩屋城と宝満城奪還」を居並ぶ諸侯の前で褒め称えられ恩賞が与えられている。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

17時半から夕食作り。

ブリ大根、麻婆茄子、紫蘇味噌奴、もやしサラダ、キュウリの粕漬け、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

お皿を洗ったら営業終了。

 

歩数計は10,208。

充実した一日だった。