2024/5/26日曜日
5時に起床し洗濯と朝食、夕食作り。
7時半に畑へ。
まずは、持参した苗ちゃん達を植え付け。
すると、まーた、緑色の液体を撒かれている箇所を発見。

このように緑色の液体を撒かれたところは異様に土が固くなっているのを発見。
このトウモロコシの畝は全部やられている事もわかった。

すかさず木酢をスプレー。

スプレー作業が終わったところでタイムアップ。
自治会の清掃活動の時間に。
45分程、ゴミ拾い。
終了後、再び畑へ。
ここから夫も参加。
ニンニクや玉ねぎの収穫作業を行った。

玉ねぎは葉の部分が倒れたもののみ。
自宅に持ち帰り、天日干しする事に。
12時に昨夜以来の食事。
皆でラーメンを食べた。
お腹が満たされたら、ニンニクと玉ねぎの葉の処理。
食べられそうな部分は切って食べる事に。
13:30から住民有志による会合へ参加。
マンション建設当初から住んでいる方々を始め、20歳以上年上の方々が多く、このマンションの歴史を学べて良かった。
15時半に帰宅後、蓬あんころ餅でおやつ。
餅もあんこも手作り。
めっちゃ美味しかった。
18時まで読書。
昨日に引き続き戊辰東北戦争本。
村上藩は藩論が真っ二つに割れた。
最終的に恭順する事になったが幕府に味方したい派は城に火を放ち城外へ出て戦った事により城下は戦火から免れた。
戦後、新政府軍が諸藩に責任者の首を差し出せ、と命じられた際には家臣歴の最も短い鳥居三十郎が申し出て斬首刑に。
藩は名誉の切腹に変えた。
若干28歳。
辞世の詩があっぱれ。
「二十九年 夢のうちの夢
花開き花落つ 皆 春風」

そして、諸藩が次々と降伏した事により庄内藩は17藩に攻め囲まれる四面楚歌状態に。
西軍は降伏した藩に先鋒を任せる。
当に昨日の友は今日の敵、という変態チックな事をやらせる。

庄内藩は海にも面している。
酒田港にも鼠ヶ関に秋田藩の蒸気船陽春が近づき威嚇射撃。
それは、村落を越え山中に落ちた。
これにより鼠ヶ関こそ最重要拠点と再認識。
元々、ここは藩内の学者、田中万春がロシアの南下を危ぶんだ頃から砲台や哨所、陣屋を築き防備していたところ。
地元の郷士、大島治郎は自警隊を組織、間道を隈なく調べ隊員を配置し警備にあたらせた。
更に鳥海山を越え矢島で戦った新徴組は休養し藩主にお目見得後、小名部に配置された。
鼠ヶ関でも元庄内藩士伊黒末吉が義勇隊を組織。
民兵隊を組織・訓練し領国防衛に献身していた。
股に被弾しながらも5,6人に立ち向かった中村次郎兵衛率いる120人も鼠ヶ関に着陣。
お怪我は大丈夫だったのだろうか。
北陸から凱陣の榊原十兵衛隊は大砲一分隊隊を三瀬に。
残りの二分隊を率いて鼠ヶ関に到着。
歴戦の経験から敵地を選び自ら設計し砲塁の築造を急いだ。
太い梁を渡し屋根を掛けて破裂弾を防ぎ、砲眼・銃眼を穿った堅固な構造は鼠ヶ関を難攻不落の要塞たらしめた。
十兵衛と共に北陸で勇戦した土屋新三郎も鶴城凱陣のその足で関川の守備に。
村上兵のうち柴田茂左衛門隊30人が関川へ移陣。
本多元太銃兵隊60名も加わった。

↑これは、村上藩家老鳥居三十郎と共に城を打って出た一派か。
めっちゃ心強かったと思う。
「武士道残照」(中島欣也著)を既にゲットしているのであとで詳細を調べる事に。今日はここまで。
19時から夕食。

次々と鍋に材料を突っ込み昆布出汁とコンソメと塩と唐辛子を入れただけ。
シンプルな味付けが喜ばれた。
お皿は長男が洗ってくれた。
ありがたく読書をしていたら寝落ち。
0時半に覚醒。
ブログを投稿したら最新情報をチェックする事に。
歩数計は9809。
充実した一日だった。